アップダウン 二人芝居 音楽劇 「桜の下で君と」2023/12/18

雑感を少しずつ書き進めてますが、なかなか筆が進まない(笑)



2023年11月11日(土)14:00~ コンカリーニョ アップダウン 二人芝居
音楽劇 「桜の下で君と」

【舞台の概要】

●フライヤーより

お笑いコンビ、アップダウンは、劇場で「桜」をテーマにネタを披露。本番を終え楽屋に戻るが、竹森は「自分たちも40代になり、ただ笑わせるだけじゃなく、笑いを使って大事なことを伝えていけるものを作りたい」と、『特攻隊』を題材にしようと提案。
阿部は「命を捨てて戦った人たちのことを笑いになどできない」と反対するが、竹森の説得により【特攻隊をテーマに音楽劇を作る】ことを決める。

2人がきになったのは、第四十五振武隊長として昭和20年5月28日、二人乗り戦闘機で特攻した関根一郎という人物。
「なぜ二人で突撃したのか?」竹森は阿部と調べを進めていく。

昭和17年、関根一郎が教官を務める熊谷軍飛行学校に14歳の久保玄七が入学。甘えん坊で子供っぽい玄七を関根は弟のように思い、師弟の絆は深まっていく。
昭和19年、本土決戦阻止へ特攻開始。関根も志願するが、左手麻痺と妻子を理由に軍が拒否。それを知った関根の妻子は子を道連れに自殺。ついに軍は関根の特攻隊入りを認める。
昭和20年、鹿児島の知覧基地で関根と玄七は再会。二人乗り戦闘機で飛び立ち、米駆逐艦ドレクスラーに体当たりを敢行。

お笑い芸人として、人生をかけ特攻に散っていった若者たちの生きざまを「笑い」と「歌」で今を生きる若者に伝える、ドキュメンタリー音楽劇。

【出演】
アップダウン 竹森巧、阿部浩貴
二人芝居 関根 一郎/竹森巧、久保 玄七/阿部浩貴
※脚本等の記述なし

●記憶からホンを辿る

漫才から始まる音楽劇。
こうして平和に暮らしている現代、過去には何があったのか。
先人が命を散らして守った日本。

「靖国で会おう」

桜咲く、桜散る靖国へ祭られる多くの先人は、命そのものを懸けて散った特攻隊は、何を思い、どう過ごし、どう死と向き合い、残す人々に想いを馳せ、どう死んでいったのか。

私たちは、歴史を辛く、悲しいとだけ感じることでよいのか。


【雑感】

●「お笑い」の優位性、劣位性

漫才から始まる舞台は、舞台に引き込むうえで優位と思われる。一方、今回のテーマがシリアスなものだけに、漫才からその後の展開にいかにつなげるのかが課題になったであろう。今回の舞台の一体感、オープニングからラストまでの連続性が担保されなければ、展開に違和感を持つことになる。今回は、特攻隊という対象を取り上げるきっかけ、二人が取り組む決意の展開が最大のハードルとなる。
桜、知覧、靖国、大事なこと、伝えたいこと、お笑いだからこそできること。場に出したキーワードを拾い上げて特攻に近づけていったが、知覧の持ち出し方に唐突感を持った。そして「よし、やろう」にたどり着く過程を観る側にとって納得しやすいものにできる余地を感じた。もしかしたらアップダウンを知る人にとっては、納得できる展開だったのかもしれないが。
個人的な好みになるのかもしれないが、竹森の説得に阿部がいやいやながらも応じていき、徐々にのめりこむ展開、という選択肢があってもよかったと思う。そうなっていた、と感じる向きもあるが、多少の滑らかさを求める自分がいた、ということだろう。
ふと思ったが、特攻につなげる展開そのものが、お笑いのネタ的な展開だったのかもしれない。芝居として捉える場合、その要素は劣位、と感じる。今回の舞台は音楽劇として、エンターテイメントとして捉えるほうがよいだろう。僕の芝居に対するイメージが狭いのかもしれない、とも思った今回の舞台であった。

●芸人の、俳優としてのスキル

つくづく感じるが、お笑い芸人の皆さんの俳優としてのスキルの高さは、今回の舞台でもやはり感じた。数多くのネタ、数多くの舞台の中で培ってきたのだろうし、ネタ作りにしろ舞台づくりにしろ、観察と把握の能力が特に求められるのであろう。そこに表現したいものを表現するための努力は、相当なものなのだろうと強く強く感じた。本人の年齢と設定の年齢に相当の差があるにもかかわらず、そう見えるのはそう見せるのには、脱帽である。

●特攻をどう捉えるか、にこだわらない

教え子を戦線に送り、戦死していく様に自責の念に駆られる、特攻志願も妻子を理由に軍は受け入れない、その妻子も思いとどまるよう懇願する、しかし本人は教え子への思いから特攻を志願し続ける。そのすえ、妻子は入水自殺する。遺書には「後顧の憂いになるので、お先に行って待っています」の文字。

当時の、そしてモデルとなった方々の思いを知る由もない。妻の思いを想像するに、夫を想い、その遺志に殉じたというものだけではないのであろう。

特攻という戦術に対する、現代を生きる私たちの考えは今後の選択肢としては否定的ではあるものの、過去の史実に対する考えとしてはそれぞれであろうと思う。そのうえで、英霊という言葉には戦争で亡くなった方々に対する鎮魂のほかに、過去の戦争を肯定的に捉えるイメージも感じる。また、その死の上に今がある、という言葉にも、似たようなイメージを僕個人としては感じる。
戦争で数多くの人々が、日本国民だけではない数多くの人々が亡くなった事実を遠い過去のものとしない努力、それが今回の舞台のテーマであろう。そう考えると、それぞれが持つ言葉のイメージに対して、どのような表現を言葉を展開を構成を、選択することが必要なのかがとても悩ましい。

●客席に向けた転がし(照明)がツライ

客席に座っていて、光が目に飛び込んでくる照明は、やはり嫌いだ。
漫才の冒頭の照明であり、ステージでの照明としての使い方であることは理解している、が、目つぶし的な照明は、嫌なのである。きわめて個人的なもの、ではある。

演劇家族スイートホーム第7回公演「いつか、いつだよ」2023/12/15

こんなにもじっくりと連日にわたり観劇するのはなかなかない!
ということで、TGR2作品目は、こちらです。


2023年11月4日(土)12:00~ シアターZOO 演劇家族スイートホーム
第7回公演 「いつか、いつだよ」

【舞台の概要】

●フライヤーより

「もし戻れるなら、高校の頃ですかね」なにしたい?「青春がしたい!・・・ま、そんなこと出来ないけどね。」と、言いますと?「現実的に、無理でしょ?」それが、出来ちゃうんだなあ。青春は再現可能なのか?青春は誰が定義するの?青春って、甘酸っぱくて、自由で、そして、果てしなく遠いのかもしれない。私にとっては。

【出演】※役名(よみ)/役者の順
巻 真希(まき まき)/竹道光希、坂本(さかもと)/本庄一登、金本 加奈子(かなもと かなこ)/古谷華子、吉田 頼(よしだ より)/松尾佳乃子、春野 ハルキ(はるの はるき)/目黒紅亜(ウェイビジョン)、八木 公平(やぎ こうへい)/高橋雲(ヒュー妄)、青井 葵(あおい あおい)/湯本空、二宮 七菜香(にのみや ななか)/服部一姫(札幌表現舎)、多田 忠(ただ ただし)/菊池健汰
【脚本・演出】高橋正子 【照明】手嶋浩二郎(夕凪) 【音響】渥美光(劇団うみねこ) 【舞台美術】岩崎陸來 【宣伝美術】河合華穂 【制作】湯本空、山田雄基 【スタッフ】山崎拓未、五島基愉

●記憶からホンを辿る

・・・猫をかばって死にかけました、そう、死んではいません。そんなあなた、輝いていた高校の頃に戻りませんか?人生、やり直しませんか?ほんの少し寿命をいただきますが・・・
“死神”坂本の半ば強引な誘いに乗ってしまった真希30歳手前?、坂本が過去の隙間を見つけて戻された高校生活とは、なんとコロナの試練真っ只中の放送部!活動休止中にもかかわらず坂本が与えてきたミッションは「みんなで放送の作品を作ること」。生徒会に目を付けられ、放送部の顧問は自分が過ごした高校時代に公開告白をしてきた八木?!
違う時代の高校生活をどう生きる?放送部のみんなで作品作りは?生徒会の目を盗め!働け、八木!

【雑感】

●坂本のサイズがでかい、動きがでかい、声もでかい

いや、貶しているわけではない。ただ事実を述べているだけである。
舞台上での死神=坂本は、時空を超えた状態を示す必要があり、演出としてこのような置き方をしたのだと思う。その意味では、成り立っているとは思う。ただし、坂本の性質上、動きの大きさは時空を乱す、というか、舞台上のフォーカスをどんどん動かしてしまうので、観る側にとってはもう少し落ち着いたほうが見やすいと感じた。また、坂本は基本的に「静」で場を支配し、真希の思わぬ反応に対して派手すぎない「動」で動揺などを表す方法もあったのではないか、と思う。

●部室のドア

役者も演出も舞台美術も、ここは悩んだと思う。部室のウチソトの別が必要だが、舞台空間をしっかり使うためには建て込めない。ドアの開け閉めで空間を仕切ろうとの努力がマイムにも表れているが、芝居をしながらの出入りの連続は、相当な訓練に拠らなければ精密な体の動きを妨げる。かといって、引き戸ではないし・・・見逃しや見落としではないのもわかるが、ドアの開閉は何らかの工夫が必要だったかもしれない。
例えば、恐る恐るのシーンはゆっくり精緻にドアノブを回すがそれ以外はドアノブを回さない、駆け込むところはドアノブすら握らずにドアを跳ね開ける、といった変化のつけ方もありではなかろうか。マイムを見せるための舞台ではなく、ストーリーと感情にフォーカスした演出だったので、それもありかと。

●時代背景の戸惑い

高校生に戻る、と聞くと、高校生をやり直す、と受け取る場合が多いと考える、このため、真希は本人が過ごした高校時代に戻っていくのだろう、と最初の場面で受け取った。ところが、「隙間を見つけるのに苦労しました」(確か坂本にこんなセリフがあった)という時点で、最初の僕の解釈との違いに気づき、シーンは前後しているかもしれないがマスクをしている状況に時期の混乱を生じ、コロナの流行が始まったころに敢えてなぜ戻ったのかに疑問を持ち、とりあえずそこは置いといて、ってな感じになるのに少し時間を要した。
ここは少し、坂本にいつの時代の高校生活に、なぜ戻ったのか、を付言してもらうほうがよかったように感じた。僕が頭の中でぐるぐる考えている間にそのセリフがあったとしたら、ちょっとだけ観客が戸惑わない、もしくは戸惑いの少ない展開のほうが、僕の好み、ではある。

●高校生の、湿度。

部活動のあらゆる大会は中止となり、放送部のNコンも例外ではなかった時期。引退する3年生の無理やりな割り切り、後輩たちの自らの力ではどうにもならない中での先輩に対する無償の思いやり、高校生らしい世界がしっかりと表現されていた。コロナで大会が中止や延期になったりした時期、様々な様子がテレビで報道、特集されていたが、そこに湿度は感じらず、涙はあってもドライなシーンばかりだったことを思い出した。高校生は、もっと高い湿度の中にいたような気がする。僕自身は高校の放送局でアナウンスを経験し、前回の北海道開催のインターハイのアナウンス選抜で苦杯をなめた。そのころは、なにかあればもっと霧がかかるような湿度の中での生活だった。僕自身はその湿度が煩わしくて、高校生っぽい湿度の中から抜け出そうとしていた。
そんなことをも思い出させる、高校生の湿度をリアルに表現していた舞台だったと思う。

●青井の軽さ、二宮の責任感、加奈子の粘度、八木のだるさ、そしてコントラスト

青井の軽さは舞台を明るくし、二宮の責任感は時代を映し、加奈子の粘度は高校生の湿度を体現し、八木のだるさは舞台をまあるくしていた。これは詳しく説明するものではない、舞台を共有した皆さんなら、感じてもらえる表現ではないか、と思い記している。特に青井のドライと金本のウェットのコントラストは、とても鮮やかだった。コントラストという点では、真希と二宮もコロナと時代をめぐるコントラストを表現していた。
感じ方は違えどそれぞれの高校生活とコロナを過ごしてきた人々にとっては、この二つのコントラストが何かを感じるポイントになると思う。

●コロナ禍の高校生へのレクイエムか、大人と政治への皮肉か

劇中で、高校生に戻った真希はほとんどマスクをしていなかった。高校生たちや八木はマスク着用を基本にしていた。部活動の無許可での再開に高2の頼(より)は反発し、高3の加奈子はあきらめ、高1のハルキはあきらめなかった。マスク、お菓子、消毒、密室などが舞台上にばらまかれ、真希がかき回し、二宮が秩序を、青井が波紋を、八木が無気力な大人を、多田が客観を、それぞれ担い、そこからいくつかのイメージが浮かび上がっていた。
公開が約束されない野球部へのインタビューをめぐるストーリーは、コロナで高校生活の1ページを変えられてしまったことへのレクイエムだ。この経験が将来生きるという八木、ルールを守って1日も早い再会を願う二宮、いつだよと叫ぶハルキはコロナによって大人と政治がもたらした状況へのアンチテーゼであり、真希の存在そのものが皮肉に満ちている。
ホンや演出に丁寧さを求めたい気持ちはある。ただ、それを求めるとこの舞台が内包する荒々しさが損なわれ、レクイエムが葬送に、皮肉が痛烈な批判になりかねない。つまり、別作品となってしまう恐れがある。

この作品は、このキャストと舞台と演出で、作品として実にしっかり成立しているのだ。

トランク機械シアター「ねじまきロボットα(アルファ)~バクバク山のオバケ~」2023/12/14

TGR2023札幌劇場祭、ご縁あってたくさんの舞台を拝見しました。
せっかくなので、観劇雑感、という次第です。

さて、年内に全部をアップできるのか?!


2023年11月3日(金)14:00~ やまびこ座 トランク機械シアター
「ねじまきロボットα(アルファ)~バクバク山のオバケ~」

【舞台の概要】

●フライヤーより

バクバク山にはオバケがでるんだって!オバケと友達になりたくて“アルファー”と“つきはぎ”があそびにきたよ!でもそこにいたのは本当にオバケ?なんでオバケになったの?バクバク山の秘密が明らかになった時、ぼくたち、おともだちでいられるかな?

【出演】縣 梨恵、石鉢もも子(ウェイビジョン)、後藤カツキ、さとうともこ、寺本彩乃(CAPSULE)、原田充子、三島祐樹 【作・演出】立川圭吾 【音楽】三島祐樹@ラバ 【音響】橋本一生 【照明】秋野良太(合同会社MELON AND SODA) 【イラスト】チュウゲン 【企画・制作】一般社団法人トランク機械シアター

●記憶からホンを辿る

人間と動物の約束。
それは、人間が山の「バクバク」に食べ物を届け、動物は「バクバク」を山に閉じ込めること。
人間は山に近づかないようにした。
動物は人間の食べ物を食べないようにした。
「バクバク」は、山で人間の届けた物を食べ続けていた。

ねじまきロボットのアルファーは、バクバクと仲良くなろうとした。
アルファーの友達、ロボットのつぎはぎも、そうしようとした。

バクバクが食べていたのは、人間の「食べ物」ではなかった。
バクバクが食べていたのは、人間の「ゴミ」、だった。
バクバクは食べて食べて食べ続けて、姿が変わっていった。

ある動物が、つい人間の食べ物を食べて、死んだ。
人間は、知っていた。
動物は、知っていた。
バクバクも、知っていた。
それでも、食べ続けた。
「しかたないんだよ」
アルファーは、バクバクを止めようとした。
止めようとしたが、ネジが切れてアルファーは動かなくなった。

バクバクは、つぎはぎに頼んだ。
「ネジは僕がいないところで巻いて」
「でも」
「お願い、お願い」
つぎはぎは、バクバクの懇願に「しかたなく」従った。

「あのままじゃだめだよ、食べるのをやめさせなきゃ」
「しかたないんだよ」

しかたない、しかたない、しかたない。
子供たちは、今は知らない。
でも、大きくなったら知ってしまう。
しかたない、しかたない、しかたない。

しかたない、でいいの?
しかたない、じゃなく、ちゃんと話そうよ。
それがともだち、だよ、きっと。

人間でもない、動物でもない、ロボットが紡ぐともだちストーリー。

【雑感】

●初対面(のはず)、立川佳吾くん。

久々のやまびこ座、マスク姿ではあるが、入口でふと見た記憶があるような顔。
あー、きっと立川佳吾くんだ。直感した。
なぜそう思ったのか・・・接点を探してみた。経歴には教育大札幌分校と書いてある。
僕と芝居と教育大札幌分校の接点は、2003年2月の梯提案舎(かけはしていあんしゃ)「Re;(あーるいーせみころん)」、同年2003年4月の演劇集団空の魚「オセロ・ゲーム」の観劇。地域活動の後輩・大江圭介が空の魚のOBだったり、当時所属していた劇団のメンバーにOBがいたり。いまさらながら、大谷啓介くん、遠藤雷太くんの名前を見つけたりして、感嘆。
いろいろお話聞いてみたいなぁ、と、唐突に初対面で思った。
でも、きっと初対面に違いない、2023年11月。

●トランク機械シアターは「やまびこ座」を使い慣れている、きっと。

やまびこ座。ここの主役は観客でも劇団でもなく、子ども、だ。
そのことはやまびこ座の構造が物語っている。
半円形のホール、客席の八百屋の緩やかな角度、広めの通路、低めの座席、近い客席最前列と近くて低めで緞帳のある奥行の深くはない舞台、そして短いながらも舞台上(カミ)下(シモ)から壁沿いにそれぞれ花道がある。子どもにとっては大きく、大人にとっては小さく子どもに目の届く空間である。

トランク機械シアターは、幕前から役者を登場させ、話しかけ、笑い、歌い、踊り、会場の子どもたちとコミュニケーションを積み重ねていった。子どもの行動制限は親任せではなく子ども本人との「お約束」とし、開場から開演をスムースにつなげ、暗転を避け、子も親も安心できる導入としていた。トランク機械シアターは、子どもたちを対象に人形劇を主体とした集団である。その意味では当然とも言えるが、やまびこ座の機能を生かした舞台づくり、子どもを主役にご両親をサポートする視点を持った、やまびこ座を知り、使い慣れた集団だと感じた。

●開演の「バクバク山はマスクなしでは入れない」はちょっと混乱。

開演前に歌でいくつかの「お約束」しての開演だったが、「・・・もうひとつ・・・」と続きが。
「バクバク山にはマスクなしでは入れない」
演者は全員マスク着用、コロナやインフルエンザの流行が気になる昨今、会場でのマスク着用を暗に促す告知か?と混乱。マスクを開演直前のこのタイミングで?!
・・・と、まあ、ちょっと気になった。

●演者は全員マスク着用、効果的だったのかもしれない。

役者と人形遣いが混在することから、トランク機械シアターでは舞台上に登場する「人間」を演者、と統一したい。
演者が全員マスク着用だった。これは新型コロナが感染法上の2類とされていた時期に一般的だった対策を継続することで、ご来場の皆さんの安心を担保するため、と考えられる。
舞台上でのマスクは、一般に役者にとっては不利と考えられる。表情が半分見えないからだ。それを動きでフォローすることになるが、簡単ではなかろう。他方、人形を操るうえでは演者の表情は差し支えになる可能性があるのではないか。過去のトランク機械シアターの公演写真を見ると、コロナ前はマスクを着用していない。その時の人形と演者の一体感がわからないので何とも言えないが、マスクは決してマイナス効果だけではないと考えられる。人形の感情よりも、演者の感情が上回ると、人形の存在が邪魔になる可能性があるのではないか。その意味では、マスクは効果的だと感じた。一方で、マスクが演者と人形の距離感を生み出しているのではないか、との印象もある。幕前の会場とのコミュニケーションではアルファーに限って登場し、かつ、アルファーというよりアルファーを担当する演者と会場とのコミュニケーションが中心と感じられたこと、他の演者は人形を介していなかったことから、劇中では演者とアルファーの一体感が減じているように感じた。

●人の掟、動物の掟、バクバクの掟

人は山に「食べ物」を持っていく。動物は人の「食べ物」を食べない。バクバクは山から出ない。マイナスの三角関係が均衡を保っている。負の循環を断ち切ろうとしたのが、アルファーでありつぎはぎだった。でも、バクバクは受け入れなかった。バクバクはなぜお腹を空かせているのか、なぜ食べるのか。いや、バクバクは本当に食べたかったのか。バクバクが大食漢でなんでも食べ続けてしまうので大量の食べ物が必要だから、という劇中の「お話し」は、何を指し示すのか。

バクバクの正体を、作・演出の立川佳吾はどう位置付けているのだろうか。

●バクバクの正体、脚本の意図

ストーリーを素直に理解すると、「山」そのもの、ということになる。人間が出す様々な廃棄物を受け入れ、どんどん環境が破壊されていく様相から、そう考えることができる。人間の食べ物を食べた動物が死んだことも、そう考える伏線であろう。子どもが大人になり、バクバクの食べ物があらゆる廃棄物であることに気づく時間軸から考えると、「山」のサイズ感が適切な表現であるとは思う。

他方、アルファーやつぎはぎはロボットであり、その時間は人間よりもはるかに長い。

舞台でのごみと、バクバクのオバケへの変化の表現は、核廃棄物や原発の処理水を想起させる。この点を踏まえると、山ではなく大地や海、つまり地球に対する意識が脚本にはあるのだろう。解決策を示すことが困難な現状で、山の環境問題として捉える程度にとどめることなく、考えて考えて考え続けて課題解決の道を一人一人が探ることを提起しているのではないか。

舞台を観て、ご来場の皆さんが感じたのは虚無か、責任か、それとも・・・。

近々、札幌でも書展開催予定。2021/03/25

旭川での書展(個展)を終えて、こっそり札幌の準備中。

会場を確保し、一緒に書展を開催するメンバーと打ち合わせを重ね、ご案内のはがきのデザインなどを芝居仲間にお願いし、額装をお願いする会社の方と打ち合わせ、展示作品の決定と額装持ち込み日程、仕込みなどなど・・・いくつもの相談や打ち合わせなどを徐々に完了しつつ、本日を迎えております。

4月になりましたら、お知らせします~

観劇日記 最強の一人芝居フェス「INDEPENDENT」2021/03/23

Twitterで旧知の役者の出演情報を見つけ、衝動的に観劇。


~ INDEPENDENT、とは? ~

2011年於全国ツアー以来、各地で”地域版”が開催され盛り上がりを見せている大阪発”最強の一人芝居フェスティバル”。2020年5月開催予定をコロナ禍で延期しリトライ!本家大阪公演で好評を得た招聘2組を道内4作品が向迎え撃つ!

(以上、フライヤーより抜粋)

・・・と、いうことのようです。

今回は上述の通り6作品を3作品ずつの2ブロックに分けての上演。僕はBブロックを観劇。久々の今コンカリ、久々の観劇。


~ 以下、雑感 ~


1.「かさぶた」 

 出演 ひらりそあ
 脚本・演出 竹原圭一

お二人ともRED KING CRAB所属。同劇団についてはHPをどうぞ。
( https://redkingcrab.wixsite.com/redkingcrab )


(1)ストーリーを簡単に。

本番前、楽屋、鏡前に一人佇む役者。

主役を降ろされた(と主張する)この役者が、後輩と思しき役者とメイクを施しながら、出演シーンを返し(練習し)、他の先輩と思しき役者の指摘や指導を受けている。

そこに、父の現在のパートナーと思われる女性が楽屋見舞いに現れる。芝居を生涯の目標に選んだが故に生まれた父との距離、親子故の愛憎、シーンの展開とともに虚勢を一枚一枚はがされるように努力が報われない役者の悲哀があらわになり、孤独が描かれていく。

(2)脚本?演出?

蕎麦屋の老店員がメインなのに女性の楽屋に役者少なくない?
本番前のメイク中にお客様?
疎遠となった父の後妻で父は入院中で父は70代くらい?
老店員を演じる娘はいくつ?設定は30代後半も後半?
演じてる印象若すぎ?20代が30代前半を演じてます状態?

気になる・・・

(3)演出?役者?

上述のずれというか狂いというか違和感というか、そういうものがあるために発生した戸惑いが、役者と役柄に対する印象がしっくりこないまま。

(4)それでも「30分間」の印象が「早い」

うまい役者ではありましょう、時間の経過が早かった。
時間の経過が早い理由は、戸惑いにあれはゝこれはどうと考えても早くはなるけど。

どっちなのかな、今回のは。



2.「遊泳」

 出演 千田サトミ
 脚本・演出 渡辺たけし

(1)ストーリーを簡単に

75年周期で集会し続けるハレー彗星の尾っぽに地球が飲み込まれる日、重力と空気がなくなる。その日のためにトレーニングを続ける。息を5分間止める。息を止めて。ねえ、どうして一緒にやってくれないのメリーさん。どうして?どうしていつも言うことを聞かないの?!児童相談所から面会の電話がくる。来週、来週、来週・・・。彼から電話がくる。ごはんにこんにゃくを混ぜると太らないの。太らせないの。そう、太らせないようにしなければいけないの、彼のいいつけどおりに。
どうして、ねん、どうしていうことを聞かないの?!・・・動かない、メリーさんが動かない・・・どうしたら、どうしたらいいの?教えて携帯。ねえ、教えて携帯!ダレカ、ダレカオシエテ!

(2)時事が刻々と表現されてはいる脚本だが

怖いなぁ・・・脚本・・・。
怖いんだけど、不条理化、抽象化することで現実世界と距離を置いている。単に時事を脚本化して問題視したり疑問を投げかけているわけではないものに仕上げている。このあたりはうまいなぁ、と率直に思う。
誰かに縛られ、ありえない空想話を妄信し、子供を死に至らしめる狂気。
物語として観ようとすると即座に足元をすくわれる構成は、好みの分かれるところではある。ベケットや別役実がお好きな方にはお勧めしやすいのではなかろうか。

(3)そういえば、狂気の役者だった

「千田サトミ」さんとは同じ劇団に所属していたことがある。セリフが聞こえないほどの早口でも、滑舌の良さからリズミカルに聞こえる。セリフはもっとはっきりと聞きたいところだが、たぶん演出によるものだろう。
それにしても、よくもまああれだけのセリフを覚えたものだ、僕には不条理劇としたとらえられないこの脚本を。
狂気にすぎるシーンがあった。狂気を狂気のままに演じることができるのが、この役者であった・・・多分本人は狂気とも何とも思っていない気がするが。
脚本・演出の「渡辺たけし」さんのことを多分僕は知らないが、このふたりは旧知の仲なのではなかろうか。この脚本を演じるにはうってつけの役者であることは間違いない。彼女以外は脚本に疑問を抱き、表現に過不足が生じると考えられる。

(4)正直なところ・・・

脚本はあまり好きではない。過去にベケットのホンで演出したことがあるにも拘わらず、ではあるが。
演出はほんのちょっとだけテンポを変えると見やすいだろう。演出の意図するところとは違う可能性はあるが。
役者は見ごたえがあり、他に同じようなタイプは見当たらない。

好みの分かれる30分の一人芝居、だということだろう。

そして僕は、脚本はともかく、この役者を観たいとずうっと思っていたことに改めて気づいている。


3.「ミミクリ」 ※大阪招聘作品

 出演 近藤ヒデシ
 脚本・演出 成田竜治

(1)ストーリーを簡単に

今から2300年ほど前、食客3,000人を抱えていたといわれる孟嘗君が、他国の王にその命を狙われる危機に陥った。その危機を救ったのが、食客の二人。他国の王への献上品を欲しがる妃の口添えを得るために献上品を盗んだ盗人、天下の関・函谷関を鶏の鳴き声で朝を告げて開門させた物まね上手、これをして鶏鳴狗盗という、との故事がある。

世界史に物まねで記録された物まね名人にあこがれる、物まねによる故事の紹介タイム。

(2)面白いことは面白いが

物まねが演劇感を薄めていることに、残念な気持ちを覚えてしまった。これはこれで芝居なのだが、物まねの出来具合みたいなものをついつい追ってしまう自分がいた。

いや、世界史に唯一刻まれた物まね名人のことを(多分)リスペクトして、一人芝居として作り上げてるのだから物まねが多用されているのは脚本としてのテーマだろうし、ただただ僕の視野が狭いだけなのだが。

(3)すこしだけ丁寧に、少しだけ地に足をつけて

印象の部分かもしれないけど、物まねに力が入ってたり自信があるせいだろうか、芝居よりもパフォーマンスのほうに近寄った作品との印象を持っている。そのために、演じ分けた登場人物同士の関係性に少々の狂いがあるように感じた。

A 「おい」
B 「へぇ」

AとBの心理的関係はセリフとしぐさで演じ分けられよう。
同じように、

A 身長160cm
B 身長180cm

AとBの物理的関係もセリフとしぐさで演じ分けられよう。
今回の舞台では、言ってみればAとBの視線が狂うんですな。

某新聞社の自社広告も、同じ状況に陥っている。
仕事仲間?ビジネスパートナー?の男女の視線がすれ違っている広告をこの2年くらいだろうか、否応なく目に入ってくる。身長差のある男女をそれぞれ撮影して、サイズを修正して合成したのだろう。ふたりとも空(くう)を見ているようにも見える。

こういう違和感を感じたし、もっと高い完成度を求めてしかるべき役者、脚本だと思った。


~ 以上、雑感 ~


やはり劇場はいいですな。
機会をつくって、観劇雑感と洒落込みたいです。


追伸、
感染症対策、勉強になりました。