星くずロンリネス短編演劇オムニバス公演 「くずテレビ」 ― 2024/11/03
ほぼ1年前の公演の雑感を今頃書いている・・・遅筆にもほどがある、と反省。引き続きTGR2023の作品です。
2023年11月19日(日)11:00~ BLOCH 星くずロンリネス
短編演劇オムニバス公演 「くずテレビ」
【舞台全体の概要】
●フライヤーより
星くずロンリネス約5年半ぶりの単独公演!総勢20名の役者と作る初上演の短編演劇4作品!言葉遊びやギミック満載!テレビを見るように気軽に見ることができるポップでキャッチーな短編演劇4作品を一挙上演!短編演劇の合間には映像企画も上映するなどお客様を飽きさせないワクワクをお届け!
【作・演出】上田龍成、【照明】手嶋浩二朗、【音響】山口愛由美、【制作】寺田彩乃、野澤麻未、【イラスト】AyaNee、【デザイン】むらかみなお ・・・他多数
~ 短編演劇4作品をそれぞれ ~
「緑の神」
【フライヤーより】
年老いた芸人は妻から離婚届を突き付けられていた。理由は「面白くなくなったから」。20年以上前、お笑いの賞レースに出たことを思い出す。若い頃の自分は明るい未来を信じていた。星くずロンリネスがお届けする過去の自分のため、未来の自分のため、必死になるおじさん芸人の物語。
【出演】※役名/役者の順
野上/宮沢りえ蔵(大悪党スペシャル)、みどり/小林なるみ(劇団回帰線)、今日のノガミ/遠藤洋平(ヒュー妄)、松永/野沢麻未(ウェイビジョン)
【ギャグ監修】Yes!アキト 【楽曲協力】つれづれぐさ 【声の出演】やすと横沢さん、上田龍成
【雑感】
●巧みで匠な二人
年老いた芸人の野上とその妻、宮沢りえ蔵さんと小林なるみさんがそれぞれ演じた。その経歴を詳しく知るわけでも調べたわけでもないが、札幌の演劇シーンで長く活躍しているお二人だということはさすがに承知している。
短編演劇オムニバスは、短編だけに背景を丁寧に描く時間がなく、結末に向けて展開が早いのが一般的であろう。その短編において、役柄そのものに、年齢も性格も関係も窺うことができる安心の中に芝居が始まるのは、脚本にも役者にも「柱の明確さ」が必要だと思う。脚本は後述するとして、その空間を違和感なく提供できるこの二人の役者の実力の高さを、最初に挙げたい。
●若い(であろう)二人の役者の安定感
観劇はしばらくぶりだ。そして、何か食指が動く要素がないと劇場には足を運ばないという偏屈な自分。最近、というよりも、身近な役者以外は知らない。この回に登場する遠藤洋平さん、野澤麻未さんはもちろん初見。そうか、最近の若い皆さんはこうも安定しているのか・・・などとひとりごち。特に遠藤洋平さんの他の姿を観てみたいと思った。
●脚本と配役、演出の妙
素直にこの短編をみると、過去と現在の「ノガミ」が入れ替わることでハッピーエンドにつながるファンタジー、である。僕は素直じゃないせいか、そうは感じられなかった。僕には、現在の野上のリアルな回想シーンが過去のノガミたち、と感じられた。つまりノガミは、彼の脳内で展開された野上の過去の記憶なのではないだろうか。
この短編では、時間経過を経ていることを考慮しても同一人物とは思えない役者が演じる「ノガミ」同士が入れ替わる。20年以上前のお笑いショーレースの本番前に大事な荷物を誤配する原因となった女性が「すいません」や「申し訳ありません」ではなく「ごめんなさい」と口語的に謝る。その女性が今の野上の妻であることはほぼ登場から想像されたが過去と現在の同一人物である女性の年齢の重ね方が想像できない二人の役者。
なぜ、僕は野上の脳内だと言えたのだろう、野上の過去の記憶と感じたのだろう。
改めて舞台を思い浮かべてみた。野上の宮沢りえ蔵さんとノガミの遠藤洋平さんの近似する目、松永の野瀬麻未さんとみどりの小林なるみさんの脚本でも実際でも年齢=時間という距離感。キャラクターのテンション、舞台スペースの照明を含めた切り分け、アングルの変化、フォーカスの作り方。つまりは、カット割りがはっきりしていて切り替わる映像のような作りがそうさせているのではないだろうか。
脚本、配役、演出が作り出した映像的舞台作品だ。
そしてオムニバス最初のこの短編の観劇の真っ最中、作・演出の上田龍成さんが映像ディレクターであることを、僕は知らない。
「ワイルドシングな恋」
【フライヤーより】
父親の影響で昔から男らしい趣味が好きだった彩月。田舎町から上京し、過去を隠して真っ黒なジャケットを着て、カリスマシティーガールとして仕事に生きる。そんな中で一目見た瞬間、電流が走るような衝撃的で運命の出会いを果たした彼氏だったが・・・。何度も嘘をつく汗と涙のブチギレ劇場!
【出演】※役名/役者の順
大岩彩月/森舞子(ハッピーポコロンパーク)、サンダー江崎/Roman(ヒュー妄)、五島弘道/楽太郎、大岩正平/つだあきひこ(ウェイビジョン)、田鍋ゆう/尾崎史尭(23Hz/北海学園大学演劇研究会)
【楽曲制作】前田透(劇団・木製ボイジャー14号/ヒュー妄)
【雑感】
●大岩親子のハマリ具合とギャップ
ここは文句なしっ、て感じ?である。大岩正平の父らしさというか年齢そのものが出ているつだあきひこさん、大岩彩月のプロレス好きな娘としての森舞子さん、この二人の配役が、まずはよかったのだと思う。その一方で、「男勝りを仕込む父」と「娘の見合い相手を探す父」のギャップは、ワンカットとしてはいいが舞台としての納得感が僕には足りなかった。
●男勝りと男らしい趣味好きと乙女と
シティーガールとプロレス好きと恋する女性とを行き来する大岩彩月。飲んだ席で五島弘道にプロレス好きを告白していた事実が判明するシーン以降、男勝りとプロレスが混ざり合っていったように思えた。男勝りと男らしい趣味好きは、脚本では切り分けたものだったのか、そうではないのか。恋する女性の立ち位置での彩月にとって、プロレス好きを隠す必要はあったとしても男勝りを隠す必要はあったのか、乙女は必要だったのか、ギャップとして乙女を配置したかったのか、バレる化けの皮として乙女を配置したかったのか。
オムニバスならではの、展開の速さやカット割りのような作りをみると、決して必要だと思ってはいないが滑らかな構成を、ついつい探りたくなる。
●BLOCHの劇場としての特徴をいかに使うか
BLOCHは、札幌市内の劇場のなかでは特に横長で、奥行きが浅めの劇場である。このため、カミシモの行き来は客席の下に設けられた通路を使う。舞台奥のホリゾントまたは大黒の裏側にスペースはない。加えて、客席から舞台袖を覗くことができるほど舞台ハナと客席前列が近く、カミシモ両サイドの客席からは舞台全体を見渡すことができない。
そんな特徴の劇場で、舞台上にモニターを複数配置して奥のスペースをカットし、短編の各シーンをヨコの配置で切り分け、少人数の役者でシーンを構成しつつ、幕間では映像作品をモニターで放映して「番組」化したのが、「くずテレビ」のテレビたる所以なのだろう。
「ワイルドシンクな恋」では、そこに役者によるタテの配置を入れることで奥行きを見せていた。さらに照明の明暗での舞台の切り分けを行いつつ「暗」側で役者を黒子としての活用し、舞台上のメンバーを限定することでせわしなさや雑多な印象を軽減していた。
基本的なBLOCHでの舞台構成は、劇団によって大きく変わらないとは思う。この後の短編で思い知ることになるのだが、星くずロンリネス、いや、たぶん上田龍成さんはこの劇場の使い方が抜群にうまいのではないだろうか。
なお、他の劇団との構成の比較をしっかりと行った結果ではない。あくまで印象、である。
あ、そういえば、BLOCHの前身ともいえるUNOも舞台は浅めだった。
※BLOCHの前身といえば「マリアテアトロ」だと思うが、僕にとってはマリア階下の「UNO」も含まれる。
●役者へのフォーカス、シーンやカットの切り取り方
「ワイルド・・・」で少々気になるシーンがあった。ストップモーションでの尾崎史尭さんの表情である。尾崎さん演じる「田鍋ゆう」の笑顔が、あいまいだった。あの笑顔が明快であれば、もっとシーンに起伏が出てきたのではないだろうか。彼の「女がプロレスなんて」というシーンの表情は、ストップモーションであろうがなかろうがまさにその顔!であった。舞台もシーンも、役者へのフォーカスで奥行きを深くも浅くも見せることができる、と改めて感じた。
ダークな面を含ませた表情の出来る尾崎さんはこれからが楽しみな役者である。あの顔は普段からやってるんじゃないか。隠してる「黒い尾崎」が出てるんじゃないか、などとついつい考えてしまう。とまあ、それはともかく、彼の明快な笑顔を観てみたい。それが、きっと本人と芝居と舞台上の奥行きを出してくれるに違いない・・・いや、実はもう持っていて、今回は見せていないだけかもしれないが。
・・・と、書き進めたところでふと思った。・・・笑顔のカットの棒立ち感・・・それか?・・・確かに「女がプロレスなんて」では、表情もさることながら役者から感情が噴き出していた。シーンやカットの切り取りが映像的と考えた場合、笑顔のカットは顔なのか、バストアップなのか、全身なのか。演出面で考えてもみたい部分である。
「長い一日」
【フライヤーより】
旦那が誘拐された妻は取り乱していた。付き添う妹と警察官。誘拐犯からの着信。警察からは逆探知するため、1分1秒でも時間を稼ぎ、通話をしてほしいと伝えられる。そこから彼女の長い長い一日が始まる。
星くずロンリネスが送る70年代誘拐サスペンスコメディ。
【出演】※役名/役者の順
姉/きゃめ(ハッピーポコロンパーク/劇団coyote)、妹/山木眞綾、刑事/大谷岱右(DACT)、誘拐犯/丹生尋基
【雑感】
●まきこだ~ポアロだ~
姉妹の口調が田中真紀子。そうきたか。刑事がポアロ?!そうか、70年代か、吹替か。
演出によるものかどうかはわからないが、やりやがったな、きゃめと大谷だいちゃん(率直な感想)。
●間、テンポ、動作の妙
きゃめとだいちゃんは知っていると言えば知っているが、よく知っているわけではない。その感じでの話だが、二人の舞台上での関係はリズム感のよいものだったし、僕にとっては安心感のある二人だった。そこに妹の山木さん、誘拐犯の丹生さんが入り、電話の音、驚きの表情と動作、慌てふためく光景といら立ちの加減、短編全体のテンポ、脚本の明快な構成が「技」として舞台空間をひとつにしていた。それは、電話をとる指先の表情(顔ではない、指先である)ひとつとっても、キャラクターとしてそこに佇むことができているからなのだろう。
これはね、この方々のための舞台だ。
●短編らしい短編、コメディらしいコメディ、そこから夢想するもの
構成は明快だ。キャラクターは明快だ。まさに短編でありコメディだ。それだけだ。それだけだからこそいい。だからキャラクターが残る。キャラクターしか残らない。
キャストをみてみる。誘拐犯はこの短編に必要な材料である。エッセンスではあってもスパイスとはなっていない脚本である。ほかのキャストはキャラクターとして存在した。その際、姉と妹のキャラクターが重なり、強弱で言えば姉が強く、妹が弱い。妹の存在感が舞台上で薄いわけでもなく弱いわけでもない。ちゃんと、いる。ただ、姉のキャラクターが強いのだ。それが悪目立ちするわけでもない。キャラクターとしては、姉>刑事>妹>誘拐犯、のバランスが今回のキャラクターと役者の配置の妙、であろう。
役者にとって舞台上のキャラクターとはなんだろう。役者も楽しんでいるし、それはそれでよさそうだ。他方、キャラクターが役者そのもののイメージとなり、役者そのものを示すアイコンになる懸念は持っておく必要はなかろうか。その役者がやりたいこととして様々なキャラクターがあって、それを様々な場面で演じる機会を得られるのは、幸せなことだ。そう思う一方で、ともすれば傾向として「強い」イメージのキャラクターにのみ配役されることになりはしないか、とも思う。
コメディに生きる役者、キャラクターの強い役者としてはきゃめもだいちゃんも絶品だ。
果たして、そうではないシーンに登場する彼らを僕は目にすることができるのだろうか、いや、観たいと思っているのだろうか。もしかしてそういう配役であったこともあるのかもしれないし、ただ僕が知らないだけなのだろう、僕には想像ができないだけなのだろう、とも思う。
故に、頭から指先、つま先まで神経の届く役者たちのこれからを、観ていきたい。
「白衣の女王」
【フライヤーより】
人気医療漫画「ホワイトクイーン」にまつわる3つの話。漫画の作者はバッドエンドしか描けなくなり、ファンの男は彼女から浮気を疑われ、漫画のモデルとなった外科医はミスをキッカケにオペが出来なくなっていた・・・。
「先生、僕の妻を助けて下さい!」
白衣の女王はハッピーエンドを生み出せるのか?
【出演】※役名/役者の順
白井/阿部星来(劇団パーソンズ)、近江/岡田健太郎、増井/塚本奈緒美、長田/小林エレキ、奥塚/野村大、大島/山田プーチン、猪俣/小西麻里菜
【楽曲制作】ぬいほたる
【雑感】
●ちょっとだけ話を整理してみる
人気漫画ホワイトクイーンの作者は奥塚先生、掲載誌の編集長は長田で担当編集者は増井、その漫画のファンはストッキングをかぶった大島で、大島と猪俣はつき合っている、ホワイトクイーンのモデルは白井先生で、白井先生に研修医時代にお世話になったのは近江。
シーン1
ストッキングをかぶった大島は、ホワイトクイーンの大ファンでハワイとクイーンになりたかったあまりコスプレするためにストッキングをかぶった。かぶったところに出くわした大島の恋人・猪俣は、ストッキングは誰の?何をしてるの?なに?もしかしてほかの女?浮気?そう、浮気なのね?!と激しく疑う。コスプレ?なぜ?ストッキング?!・・・疑いは晴れるのか、ストッキング大島?!
シーン2
「ホワイトクイーン」の作者・奥塚はスランプに陥っていた・・・もうバッドエンドしか書けない・・・漫画のモデル・白井先生のバッドな状況を取材してしまったから(か?)。ハッピーエンドを書こうとすると絵面が子供の絵になってしまう。奥塚の、ホワイトクイーンのファンでもある担当編集者・増井は「奥塚先生、ファンが待っています!」と奥塚を励ます。編集長の増井は、掲載誌の廃刊の危機に奥塚を励ますが、ハッピーエンドの絵面のひどさに、バッドエンドのバッドなエンドに、「もう廃刊だ~」と悶え苦しむ。書け!描け!ハッピーを描くんだ奥塚!
シーン3
白井先生、助けて下さい。僕、そう僕は近江です、研修医として白井先生にお世話になった近江です。妻が瀕死の重傷なんです!オペしてください!救急車よりも早く、救急車に妻を置いて突っ走ってこの診療所まで来ました!え?どうやって?走って!え?車より早く走れるのかって?そんなことはどうだっていい!本番ではそこまでふれてないじゃないか!ここでそんな話をせずに早く手術を!!え?ミスを引きずってメスは持てない?ミスでメスをメスがミスで?!いやだ・・・いやだ!助けて!助けて!ねえ、助けてヒーローっ!
※記載内容の一部に書きぶり上の脚色がありますが、ご容赦ください。
●ようやく雑感だ・・・人気漫画「ホワイトクイーン」を形作る3つのシーン
シーンは上記1から3の順に展開される。3つのシーンは医師の白井先生と漫画家の奥塚先生の両先生が取材という機会を通してつながっている背景がある以外、シーンを越えてキャストが直接つながっていない。軸は「ホワイトクイーン」という漫画であり、まるで自転車のスポークのように3つのシーンが「ホワイトクイーン」を形作っている。
インプロビゼーションのフォーマット(即興で舞台を作り上げるときの方法、スタイル)に、スポークン、というものが、確か、あった。スポークンとは違うが、そのフォーマットを想像させるなぁ、と思いながら観劇していた。
3つのシーンをそれぞれ展開して想像させて頭の中でつないでいく作業が必要なわけだが、なかなかこれが手間のかかる作業なわけで、それでもそれぞれがしっかりつくってあるので頭には入ってくる、それでもなお若干の違和感をかかえたのはなぜだろうか・・・。
●重ねるとは!!
3つのシーンを、最後に重ねてしまった。重ねてというか、タイムライン上で同時に流してしまった、というほうがわかりやすいかもしれない。同時進行ということである。3つのシーンのアンサンブルは、これはもう緻密なパズルだ。パズルのパーツには隙間があるわけで、ひとつずつのシーンでの微妙な歪みがその隙間だったのだろう。若干の違和感の正体が、この瞬間にわかった。
恐るべし。
2023年11月19日(日)11:00~ BLOCH 星くずロンリネス
短編演劇オムニバス公演 「くずテレビ」
【舞台全体の概要】
●フライヤーより
星くずロンリネス約5年半ぶりの単独公演!総勢20名の役者と作る初上演の短編演劇4作品!言葉遊びやギミック満載!テレビを見るように気軽に見ることができるポップでキャッチーな短編演劇4作品を一挙上演!短編演劇の合間には映像企画も上映するなどお客様を飽きさせないワクワクをお届け!
【作・演出】上田龍成、【照明】手嶋浩二朗、【音響】山口愛由美、【制作】寺田彩乃、野澤麻未、【イラスト】AyaNee、【デザイン】むらかみなお ・・・他多数
~ 短編演劇4作品をそれぞれ ~
「緑の神」
【フライヤーより】
年老いた芸人は妻から離婚届を突き付けられていた。理由は「面白くなくなったから」。20年以上前、お笑いの賞レースに出たことを思い出す。若い頃の自分は明るい未来を信じていた。星くずロンリネスがお届けする過去の自分のため、未来の自分のため、必死になるおじさん芸人の物語。
【出演】※役名/役者の順
野上/宮沢りえ蔵(大悪党スペシャル)、みどり/小林なるみ(劇団回帰線)、今日のノガミ/遠藤洋平(ヒュー妄)、松永/野沢麻未(ウェイビジョン)
【ギャグ監修】Yes!アキト 【楽曲協力】つれづれぐさ 【声の出演】やすと横沢さん、上田龍成
【雑感】
●巧みで匠な二人
年老いた芸人の野上とその妻、宮沢りえ蔵さんと小林なるみさんがそれぞれ演じた。その経歴を詳しく知るわけでも調べたわけでもないが、札幌の演劇シーンで長く活躍しているお二人だということはさすがに承知している。
短編演劇オムニバスは、短編だけに背景を丁寧に描く時間がなく、結末に向けて展開が早いのが一般的であろう。その短編において、役柄そのものに、年齢も性格も関係も窺うことができる安心の中に芝居が始まるのは、脚本にも役者にも「柱の明確さ」が必要だと思う。脚本は後述するとして、その空間を違和感なく提供できるこの二人の役者の実力の高さを、最初に挙げたい。
●若い(であろう)二人の役者の安定感
観劇はしばらくぶりだ。そして、何か食指が動く要素がないと劇場には足を運ばないという偏屈な自分。最近、というよりも、身近な役者以外は知らない。この回に登場する遠藤洋平さん、野澤麻未さんはもちろん初見。そうか、最近の若い皆さんはこうも安定しているのか・・・などとひとりごち。特に遠藤洋平さんの他の姿を観てみたいと思った。
●脚本と配役、演出の妙
素直にこの短編をみると、過去と現在の「ノガミ」が入れ替わることでハッピーエンドにつながるファンタジー、である。僕は素直じゃないせいか、そうは感じられなかった。僕には、現在の野上のリアルな回想シーンが過去のノガミたち、と感じられた。つまりノガミは、彼の脳内で展開された野上の過去の記憶なのではないだろうか。
この短編では、時間経過を経ていることを考慮しても同一人物とは思えない役者が演じる「ノガミ」同士が入れ替わる。20年以上前のお笑いショーレースの本番前に大事な荷物を誤配する原因となった女性が「すいません」や「申し訳ありません」ではなく「ごめんなさい」と口語的に謝る。その女性が今の野上の妻であることはほぼ登場から想像されたが過去と現在の同一人物である女性の年齢の重ね方が想像できない二人の役者。
なぜ、僕は野上の脳内だと言えたのだろう、野上の過去の記憶と感じたのだろう。
改めて舞台を思い浮かべてみた。野上の宮沢りえ蔵さんとノガミの遠藤洋平さんの近似する目、松永の野瀬麻未さんとみどりの小林なるみさんの脚本でも実際でも年齢=時間という距離感。キャラクターのテンション、舞台スペースの照明を含めた切り分け、アングルの変化、フォーカスの作り方。つまりは、カット割りがはっきりしていて切り替わる映像のような作りがそうさせているのではないだろうか。
脚本、配役、演出が作り出した映像的舞台作品だ。
そしてオムニバス最初のこの短編の観劇の真っ最中、作・演出の上田龍成さんが映像ディレクターであることを、僕は知らない。
「ワイルドシングな恋」
【フライヤーより】
父親の影響で昔から男らしい趣味が好きだった彩月。田舎町から上京し、過去を隠して真っ黒なジャケットを着て、カリスマシティーガールとして仕事に生きる。そんな中で一目見た瞬間、電流が走るような衝撃的で運命の出会いを果たした彼氏だったが・・・。何度も嘘をつく汗と涙のブチギレ劇場!
【出演】※役名/役者の順
大岩彩月/森舞子(ハッピーポコロンパーク)、サンダー江崎/Roman(ヒュー妄)、五島弘道/楽太郎、大岩正平/つだあきひこ(ウェイビジョン)、田鍋ゆう/尾崎史尭(23Hz/北海学園大学演劇研究会)
【楽曲制作】前田透(劇団・木製ボイジャー14号/ヒュー妄)
【雑感】
●大岩親子のハマリ具合とギャップ
ここは文句なしっ、て感じ?である。大岩正平の父らしさというか年齢そのものが出ているつだあきひこさん、大岩彩月のプロレス好きな娘としての森舞子さん、この二人の配役が、まずはよかったのだと思う。その一方で、「男勝りを仕込む父」と「娘の見合い相手を探す父」のギャップは、ワンカットとしてはいいが舞台としての納得感が僕には足りなかった。
●男勝りと男らしい趣味好きと乙女と
シティーガールとプロレス好きと恋する女性とを行き来する大岩彩月。飲んだ席で五島弘道にプロレス好きを告白していた事実が判明するシーン以降、男勝りとプロレスが混ざり合っていったように思えた。男勝りと男らしい趣味好きは、脚本では切り分けたものだったのか、そうではないのか。恋する女性の立ち位置での彩月にとって、プロレス好きを隠す必要はあったとしても男勝りを隠す必要はあったのか、乙女は必要だったのか、ギャップとして乙女を配置したかったのか、バレる化けの皮として乙女を配置したかったのか。
オムニバスならではの、展開の速さやカット割りのような作りをみると、決して必要だと思ってはいないが滑らかな構成を、ついつい探りたくなる。
●BLOCHの劇場としての特徴をいかに使うか
BLOCHは、札幌市内の劇場のなかでは特に横長で、奥行きが浅めの劇場である。このため、カミシモの行き来は客席の下に設けられた通路を使う。舞台奥のホリゾントまたは大黒の裏側にスペースはない。加えて、客席から舞台袖を覗くことができるほど舞台ハナと客席前列が近く、カミシモ両サイドの客席からは舞台全体を見渡すことができない。
そんな特徴の劇場で、舞台上にモニターを複数配置して奥のスペースをカットし、短編の各シーンをヨコの配置で切り分け、少人数の役者でシーンを構成しつつ、幕間では映像作品をモニターで放映して「番組」化したのが、「くずテレビ」のテレビたる所以なのだろう。
「ワイルドシンクな恋」では、そこに役者によるタテの配置を入れることで奥行きを見せていた。さらに照明の明暗での舞台の切り分けを行いつつ「暗」側で役者を黒子としての活用し、舞台上のメンバーを限定することでせわしなさや雑多な印象を軽減していた。
基本的なBLOCHでの舞台構成は、劇団によって大きく変わらないとは思う。この後の短編で思い知ることになるのだが、星くずロンリネス、いや、たぶん上田龍成さんはこの劇場の使い方が抜群にうまいのではないだろうか。
なお、他の劇団との構成の比較をしっかりと行った結果ではない。あくまで印象、である。
あ、そういえば、BLOCHの前身ともいえるUNOも舞台は浅めだった。
※BLOCHの前身といえば「マリアテアトロ」だと思うが、僕にとってはマリア階下の「UNO」も含まれる。
●役者へのフォーカス、シーンやカットの切り取り方
「ワイルド・・・」で少々気になるシーンがあった。ストップモーションでの尾崎史尭さんの表情である。尾崎さん演じる「田鍋ゆう」の笑顔が、あいまいだった。あの笑顔が明快であれば、もっとシーンに起伏が出てきたのではないだろうか。彼の「女がプロレスなんて」というシーンの表情は、ストップモーションであろうがなかろうがまさにその顔!であった。舞台もシーンも、役者へのフォーカスで奥行きを深くも浅くも見せることができる、と改めて感じた。
ダークな面を含ませた表情の出来る尾崎さんはこれからが楽しみな役者である。あの顔は普段からやってるんじゃないか。隠してる「黒い尾崎」が出てるんじゃないか、などとついつい考えてしまう。とまあ、それはともかく、彼の明快な笑顔を観てみたい。それが、きっと本人と芝居と舞台上の奥行きを出してくれるに違いない・・・いや、実はもう持っていて、今回は見せていないだけかもしれないが。
・・・と、書き進めたところでふと思った。・・・笑顔のカットの棒立ち感・・・それか?・・・確かに「女がプロレスなんて」では、表情もさることながら役者から感情が噴き出していた。シーンやカットの切り取りが映像的と考えた場合、笑顔のカットは顔なのか、バストアップなのか、全身なのか。演出面で考えてもみたい部分である。
「長い一日」
【フライヤーより】
旦那が誘拐された妻は取り乱していた。付き添う妹と警察官。誘拐犯からの着信。警察からは逆探知するため、1分1秒でも時間を稼ぎ、通話をしてほしいと伝えられる。そこから彼女の長い長い一日が始まる。
星くずロンリネスが送る70年代誘拐サスペンスコメディ。
【出演】※役名/役者の順
姉/きゃめ(ハッピーポコロンパーク/劇団coyote)、妹/山木眞綾、刑事/大谷岱右(DACT)、誘拐犯/丹生尋基
【雑感】
●まきこだ~ポアロだ~
姉妹の口調が田中真紀子。そうきたか。刑事がポアロ?!そうか、70年代か、吹替か。
演出によるものかどうかはわからないが、やりやがったな、きゃめと大谷だいちゃん(率直な感想)。
●間、テンポ、動作の妙
きゃめとだいちゃんは知っていると言えば知っているが、よく知っているわけではない。その感じでの話だが、二人の舞台上での関係はリズム感のよいものだったし、僕にとっては安心感のある二人だった。そこに妹の山木さん、誘拐犯の丹生さんが入り、電話の音、驚きの表情と動作、慌てふためく光景といら立ちの加減、短編全体のテンポ、脚本の明快な構成が「技」として舞台空間をひとつにしていた。それは、電話をとる指先の表情(顔ではない、指先である)ひとつとっても、キャラクターとしてそこに佇むことができているからなのだろう。
これはね、この方々のための舞台だ。
●短編らしい短編、コメディらしいコメディ、そこから夢想するもの
構成は明快だ。キャラクターは明快だ。まさに短編でありコメディだ。それだけだ。それだけだからこそいい。だからキャラクターが残る。キャラクターしか残らない。
キャストをみてみる。誘拐犯はこの短編に必要な材料である。エッセンスではあってもスパイスとはなっていない脚本である。ほかのキャストはキャラクターとして存在した。その際、姉と妹のキャラクターが重なり、強弱で言えば姉が強く、妹が弱い。妹の存在感が舞台上で薄いわけでもなく弱いわけでもない。ちゃんと、いる。ただ、姉のキャラクターが強いのだ。それが悪目立ちするわけでもない。キャラクターとしては、姉>刑事>妹>誘拐犯、のバランスが今回のキャラクターと役者の配置の妙、であろう。
役者にとって舞台上のキャラクターとはなんだろう。役者も楽しんでいるし、それはそれでよさそうだ。他方、キャラクターが役者そのもののイメージとなり、役者そのものを示すアイコンになる懸念は持っておく必要はなかろうか。その役者がやりたいこととして様々なキャラクターがあって、それを様々な場面で演じる機会を得られるのは、幸せなことだ。そう思う一方で、ともすれば傾向として「強い」イメージのキャラクターにのみ配役されることになりはしないか、とも思う。
コメディに生きる役者、キャラクターの強い役者としてはきゃめもだいちゃんも絶品だ。
果たして、そうではないシーンに登場する彼らを僕は目にすることができるのだろうか、いや、観たいと思っているのだろうか。もしかしてそういう配役であったこともあるのかもしれないし、ただ僕が知らないだけなのだろう、僕には想像ができないだけなのだろう、とも思う。
故に、頭から指先、つま先まで神経の届く役者たちのこれからを、観ていきたい。
「白衣の女王」
【フライヤーより】
人気医療漫画「ホワイトクイーン」にまつわる3つの話。漫画の作者はバッドエンドしか描けなくなり、ファンの男は彼女から浮気を疑われ、漫画のモデルとなった外科医はミスをキッカケにオペが出来なくなっていた・・・。
「先生、僕の妻を助けて下さい!」
白衣の女王はハッピーエンドを生み出せるのか?
【出演】※役名/役者の順
白井/阿部星来(劇団パーソンズ)、近江/岡田健太郎、増井/塚本奈緒美、長田/小林エレキ、奥塚/野村大、大島/山田プーチン、猪俣/小西麻里菜
【楽曲制作】ぬいほたる
【雑感】
●ちょっとだけ話を整理してみる
人気漫画ホワイトクイーンの作者は奥塚先生、掲載誌の編集長は長田で担当編集者は増井、その漫画のファンはストッキングをかぶった大島で、大島と猪俣はつき合っている、ホワイトクイーンのモデルは白井先生で、白井先生に研修医時代にお世話になったのは近江。
シーン1
ストッキングをかぶった大島は、ホワイトクイーンの大ファンでハワイとクイーンになりたかったあまりコスプレするためにストッキングをかぶった。かぶったところに出くわした大島の恋人・猪俣は、ストッキングは誰の?何をしてるの?なに?もしかしてほかの女?浮気?そう、浮気なのね?!と激しく疑う。コスプレ?なぜ?ストッキング?!・・・疑いは晴れるのか、ストッキング大島?!
シーン2
「ホワイトクイーン」の作者・奥塚はスランプに陥っていた・・・もうバッドエンドしか書けない・・・漫画のモデル・白井先生のバッドな状況を取材してしまったから(か?)。ハッピーエンドを書こうとすると絵面が子供の絵になってしまう。奥塚の、ホワイトクイーンのファンでもある担当編集者・増井は「奥塚先生、ファンが待っています!」と奥塚を励ます。編集長の増井は、掲載誌の廃刊の危機に奥塚を励ますが、ハッピーエンドの絵面のひどさに、バッドエンドのバッドなエンドに、「もう廃刊だ~」と悶え苦しむ。書け!描け!ハッピーを描くんだ奥塚!
シーン3
白井先生、助けて下さい。僕、そう僕は近江です、研修医として白井先生にお世話になった近江です。妻が瀕死の重傷なんです!オペしてください!救急車よりも早く、救急車に妻を置いて突っ走ってこの診療所まで来ました!え?どうやって?走って!え?車より早く走れるのかって?そんなことはどうだっていい!本番ではそこまでふれてないじゃないか!ここでそんな話をせずに早く手術を!!え?ミスを引きずってメスは持てない?ミスでメスをメスがミスで?!いやだ・・・いやだ!助けて!助けて!ねえ、助けてヒーローっ!
※記載内容の一部に書きぶり上の脚色がありますが、ご容赦ください。
●ようやく雑感だ・・・人気漫画「ホワイトクイーン」を形作る3つのシーン
シーンは上記1から3の順に展開される。3つのシーンは医師の白井先生と漫画家の奥塚先生の両先生が取材という機会を通してつながっている背景がある以外、シーンを越えてキャストが直接つながっていない。軸は「ホワイトクイーン」という漫画であり、まるで自転車のスポークのように3つのシーンが「ホワイトクイーン」を形作っている。
インプロビゼーションのフォーマット(即興で舞台を作り上げるときの方法、スタイル)に、スポークン、というものが、確か、あった。スポークンとは違うが、そのフォーマットを想像させるなぁ、と思いながら観劇していた。
3つのシーンをそれぞれ展開して想像させて頭の中でつないでいく作業が必要なわけだが、なかなかこれが手間のかかる作業なわけで、それでもそれぞれがしっかりつくってあるので頭には入ってくる、それでもなお若干の違和感をかかえたのはなぜだろうか・・・。
●重ねるとは!!
3つのシーンを、最後に重ねてしまった。重ねてというか、タイムライン上で同時に流してしまった、というほうがわかりやすいかもしれない。同時進行ということである。3つのシーンのアンサンブルは、これはもう緻密なパズルだ。パズルのパーツには隙間があるわけで、ひとつずつのシーンでの微妙な歪みがその隙間だったのだろう。若干の違和感の正体が、この瞬間にわかった。
恐るべし。
オパンポン創造社20周年記念公演 「幸演会」 ― 2024/11/03
多少は手元で書き進めてはいたので、1年経っても雑感をどうにか書けています。
2023年11月21日(火)19:00~ シアターZOO オパンポン創造社
20周年記念公演 「幸演会」
【舞台の概要】
●フライヤーより
何もかも失った気がした、2003年。「なにがなくとも幸せになれる」と謳いながら裸踊りをする男性を代表とする団体「幸演会」と出会った。彼らは裸踊りだけでなく炊き出しなどで、人々に幸せを届けることを理念に掲げていた。しかしそれはあくまで表向きで、その実態は・・・。幸演会での20年、これは本当の物語。オパンポン創造社20周年記念公演「幸演会」で札幌初公演。
【出演】※役名(よみ)/役者の順
高山 実(たかやま みのる)/殿村ゆたか(Melon All Stsrs)、菅 想太(すが そうた)/松木賢三(テノヒラサイズ)、土井 直子(どい なおこ)/高橋映美子、井上 梨絵(いのうえ りえ)/成瀬遥、山本 吉一(やまもと きいち)/川添公二(テノヒラサイズ)、吉田 公康(よしだ こうへい)/中川浩六(三等フランソワーズ)、野村 ひさし(のむら ひさし)/野村有志
【脚本・演出】野村有志 【演出協力】美香本響、一瀬尚代 【音響】浅葉修 【照明】根来直義 【照明オペ】石田光羽 【舞台監督】西野真梨子 【音楽】浜間空洞 【舞台美術】久太郎 【宣伝美術】勝山修平 【舞台写真】木山梨菜 【衣装協力】中西綾香 【特設サイト】三村るな 【制作】小室明子、若旦那家康 【主催】ラボチ 【制作協力】吉本興業 【協力】さっぽろ天神山アートスタジオ、さっぽろアートステージ2023実行委員会、札幌劇場連絡会【全創造】オパンポン創造社
※演出以降の個人にかかる所属等は省略しました。
【雑感】
●舞台上では小さく見えた「野村ひさし」
終焉後、ロビーに出ると物販に立つ野村ひさし、いや、野村有志さんがいた。旧知のお客様がいらしたらしく、皆さんのお相手をしながらの物販。照明の数と種類の多さについて少しだけ伺いたくて物販をみつつ様子を窺っていたところ、いかがですか、とお声がけいただいた。
でかい。
こんなにでかかったんだ・・・舞台では小さく見えたのになぁ・・・これも役者のチカラか・・・それともみんなでかかっただけか・・・そうか、照明はかなりの数を大阪から持ってきたんだ・・・でかいなぁ・・・いや、物販には興味ないんだよなぁ・・・
●記憶からホンを表現してみる、ストーリーを辿っているとは言えないが
孤独と能力の無さに苛まれ、居場所を探していた時に出会った「幸演会」。「なにがなくとも幸せになれる」と裸踊りをする高山、小さな太鼓で調子を合わせる吉田、炊き出しに勤しむ井上、寄付を集めようとサクラを演じる土井と山本、金勘定いや運営を担当する菅、そこに救いとシンパシーを感じた野村。
サクラを演じようとしてうまくできなかったことがかえって功を奏し、そこからホンを書き出し、「幸演会」をまねる団体が出始め、野村自身が客演に出かけ、売れ、グッズ販売や新たなホンで脚光を浴び、でも幸演会は崩れ始め、そして誰もいなくなった。
理想を掲げていた高山は理想の中に息絶え、理想を追い求めていた吉田は世俗にまみれ、頼ることで生きていた菅は世俗の中に消え、今いる場所に幸せを見出そうとしていた井上は世俗に生き続け、自分の中にのみ生きていた山本は自滅の中に情けをかけられ、信じるものに裏切られた土井はゲロを吐き散らかしすべてを流し去った。
登場した誰しもが自分を信じ、信じられず、厳しく、甘く、浮つき、落ち込み、また翌朝を迎え、いずれこの場から消え去る一生を生きていく途中にあって、途中のどのあたりかもわからず、どうなるかもなりたいかもわからず、それでも生きていく。
結局は褌一丁、人生裸踊りだ。
●ニシの笑いに反応しちゃう
ツッコミの間、展開がまあまあ配置されていたわけで、会場で笑い声につながってはいなかったが、僕はひとり噴出しかけていた。いや、たぶん僕だけではなくご来場の方々の幾人かの方々もそうだろう。反応することを控えがちな雰囲気というか心理的環境が、札幌にはまだあると思っている。映画館で笑い出せない、あの感じを僕もまだまだ持っている。
思わず笑っちゃえばよかったなぁ。
●照明と円を使った舞台6分割
市内劇場の照明機材のそろい具合を、現状で知っているわけではない。舞台監督でかかわったのはZOO、BLOCH、パトス、やまびこ座が10年以上前、コンカリやレッドベリーは観劇のみ、近年は先日閉館したマルチスペース・エフ(2024/1/21閉館)のみ。
オパンポン創造社は、大量の照明を持ち込んだ。今回の札幌演劇祭で観劇した、ZOOでのどの舞台よりも、数多くの照明が吊ってあった。それだけで見惚れた(のはどうかと自分でも思う)。
舞台上には円を描き、円の外側と内側、外側はさらにオクとハナ、カミシモで4分割、円のライン上と内側を使い分けることもあった。
展開に応じていくつかの空間が同時に、別空間として存在し、空間の行き来が極めて違和感のない舞台構成となっていることに高い実力を感じた。
●先入観とは事程左様に
客席に座り、観劇の準備を整える一連に、当日のフライヤーをさらりと見る工程がある。
じっくりは見ない。意外といろいろと書いているので、先に考えたり想像してしまう
当日のフライヤーにこんな記載があった。
「本作は自身の20年をつづった物語」
「劇中J-POPが数曲流れますが、・・・あの日の公演を思い出させる」
「自叙伝と謳いながらも・・・一物語として気楽に観劇くださればなにより」
いろいろと書き連ねていた。
前節でも、そのことに触れて舞台が開演した。
そのせいだろうか、野村さんにこの時期に何があったのか・・・などとついつい考えてしまった。
観るほどに考え、考えるほどに観てしまったため、直後には雑感を書くまでにアタマがまとまらなかった。
あれから2か月半が経過して、観劇の記憶から自叙伝の要素が薄れたことで、ようやく全体を通じて登場した裸踊りが意味を持って浮かび上がってきた。
先入観とは、これほどまでに思考を縛る、感じ方を制限するものだと痛感した舞台だった。
2023年11月21日(火)19:00~ シアターZOO オパンポン創造社
20周年記念公演 「幸演会」
【舞台の概要】
●フライヤーより
何もかも失った気がした、2003年。「なにがなくとも幸せになれる」と謳いながら裸踊りをする男性を代表とする団体「幸演会」と出会った。彼らは裸踊りだけでなく炊き出しなどで、人々に幸せを届けることを理念に掲げていた。しかしそれはあくまで表向きで、その実態は・・・。幸演会での20年、これは本当の物語。オパンポン創造社20周年記念公演「幸演会」で札幌初公演。
【出演】※役名(よみ)/役者の順
高山 実(たかやま みのる)/殿村ゆたか(Melon All Stsrs)、菅 想太(すが そうた)/松木賢三(テノヒラサイズ)、土井 直子(どい なおこ)/高橋映美子、井上 梨絵(いのうえ りえ)/成瀬遥、山本 吉一(やまもと きいち)/川添公二(テノヒラサイズ)、吉田 公康(よしだ こうへい)/中川浩六(三等フランソワーズ)、野村 ひさし(のむら ひさし)/野村有志
【脚本・演出】野村有志 【演出協力】美香本響、一瀬尚代 【音響】浅葉修 【照明】根来直義 【照明オペ】石田光羽 【舞台監督】西野真梨子 【音楽】浜間空洞 【舞台美術】久太郎 【宣伝美術】勝山修平 【舞台写真】木山梨菜 【衣装協力】中西綾香 【特設サイト】三村るな 【制作】小室明子、若旦那家康 【主催】ラボチ 【制作協力】吉本興業 【協力】さっぽろ天神山アートスタジオ、さっぽろアートステージ2023実行委員会、札幌劇場連絡会【全創造】オパンポン創造社
※演出以降の個人にかかる所属等は省略しました。
【雑感】
●舞台上では小さく見えた「野村ひさし」
終焉後、ロビーに出ると物販に立つ野村ひさし、いや、野村有志さんがいた。旧知のお客様がいらしたらしく、皆さんのお相手をしながらの物販。照明の数と種類の多さについて少しだけ伺いたくて物販をみつつ様子を窺っていたところ、いかがですか、とお声がけいただいた。
でかい。
こんなにでかかったんだ・・・舞台では小さく見えたのになぁ・・・これも役者のチカラか・・・それともみんなでかかっただけか・・・そうか、照明はかなりの数を大阪から持ってきたんだ・・・でかいなぁ・・・いや、物販には興味ないんだよなぁ・・・
●記憶からホンを表現してみる、ストーリーを辿っているとは言えないが
孤独と能力の無さに苛まれ、居場所を探していた時に出会った「幸演会」。「なにがなくとも幸せになれる」と裸踊りをする高山、小さな太鼓で調子を合わせる吉田、炊き出しに勤しむ井上、寄付を集めようとサクラを演じる土井と山本、金勘定いや運営を担当する菅、そこに救いとシンパシーを感じた野村。
サクラを演じようとしてうまくできなかったことがかえって功を奏し、そこからホンを書き出し、「幸演会」をまねる団体が出始め、野村自身が客演に出かけ、売れ、グッズ販売や新たなホンで脚光を浴び、でも幸演会は崩れ始め、そして誰もいなくなった。
理想を掲げていた高山は理想の中に息絶え、理想を追い求めていた吉田は世俗にまみれ、頼ることで生きていた菅は世俗の中に消え、今いる場所に幸せを見出そうとしていた井上は世俗に生き続け、自分の中にのみ生きていた山本は自滅の中に情けをかけられ、信じるものに裏切られた土井はゲロを吐き散らかしすべてを流し去った。
登場した誰しもが自分を信じ、信じられず、厳しく、甘く、浮つき、落ち込み、また翌朝を迎え、いずれこの場から消え去る一生を生きていく途中にあって、途中のどのあたりかもわからず、どうなるかもなりたいかもわからず、それでも生きていく。
結局は褌一丁、人生裸踊りだ。
●ニシの笑いに反応しちゃう
ツッコミの間、展開がまあまあ配置されていたわけで、会場で笑い声につながってはいなかったが、僕はひとり噴出しかけていた。いや、たぶん僕だけではなくご来場の方々の幾人かの方々もそうだろう。反応することを控えがちな雰囲気というか心理的環境が、札幌にはまだあると思っている。映画館で笑い出せない、あの感じを僕もまだまだ持っている。
思わず笑っちゃえばよかったなぁ。
●照明と円を使った舞台6分割
市内劇場の照明機材のそろい具合を、現状で知っているわけではない。舞台監督でかかわったのはZOO、BLOCH、パトス、やまびこ座が10年以上前、コンカリやレッドベリーは観劇のみ、近年は先日閉館したマルチスペース・エフ(2024/1/21閉館)のみ。
オパンポン創造社は、大量の照明を持ち込んだ。今回の札幌演劇祭で観劇した、ZOOでのどの舞台よりも、数多くの照明が吊ってあった。それだけで見惚れた(のはどうかと自分でも思う)。
舞台上には円を描き、円の外側と内側、外側はさらにオクとハナ、カミシモで4分割、円のライン上と内側を使い分けることもあった。
展開に応じていくつかの空間が同時に、別空間として存在し、空間の行き来が極めて違和感のない舞台構成となっていることに高い実力を感じた。
●先入観とは事程左様に
客席に座り、観劇の準備を整える一連に、当日のフライヤーをさらりと見る工程がある。
じっくりは見ない。意外といろいろと書いているので、先に考えたり想像してしまう
当日のフライヤーにこんな記載があった。
「本作は自身の20年をつづった物語」
「劇中J-POPが数曲流れますが、・・・あの日の公演を思い出させる」
「自叙伝と謳いながらも・・・一物語として気楽に観劇くださればなにより」
いろいろと書き連ねていた。
前節でも、そのことに触れて舞台が開演した。
そのせいだろうか、野村さんにこの時期に何があったのか・・・などとついつい考えてしまった。
観るほどに考え、考えるほどに観てしまったため、直後には雑感を書くまでにアタマがまとまらなかった。
あれから2か月半が経過して、観劇の記憶から自叙伝の要素が薄れたことで、ようやく全体を通じて登場した裸踊りが意味を持って浮かび上がってきた。
先入観とは、これほどまでに思考を縛る、感じ方を制限するものだと痛感した舞台だった。
劇団無法地帯第36回公演 「FANTASY/ファンタジー」 ― 2024/11/03
ここまで何とか書けました・・・
2023年11月23日(木)19:30~ BLOCH 劇団怪獣無法地帯
第36回公演 「FANTASY/ファンタジー」
【舞台の概要】
●フライヤーより
謎の死を遂げた人気小説家、Y。その死後、小説家のファンたちが彼の家の裏にある墓地に集まってくる。彼らの目的は小説家の遺言を実行すること_。「僕の最後の作品、『FANTASY』を完成させてほしい」。Yに与えられた登場人物を演じ始めるファンたちは登場人物が自分によく似ていることに気付く。さらにまるでYの作品の中に出てくるような女・Aが現れ、物語は混乱を増していくが_。劇団怪獣無法地帯が送る大人の悪魔系ファンタジー。ゴシック×人形×ミステリー。
【出演】※役名(よみ)/役者の順
A:杏(あん)/新井田琴江、B:馬喰辰巳(ばくろたつみ)/棚田満、C:茅ヶ崎余(ちがさきあまる)/前田叶愛、D:伊達雅代/太田有香(劇団ひまわり)、E:海老名理央(えびなりお)/のしろゆうこ(intro)、F:福井福(ふくいふく)/赤沢夢望、G:蒲生嬉々(がもうきき)/伊藤しょうこ、H:日高康隆(ひだかやすたか)/小松悟、I:伊勢谷和馬(いせやかずま)/足立泰雅、Y:四ツ谷幽(よつやゆう)/むらかみ智大 黒衣/原田充子
【脚本・演出】新井田琴江 【照明】松本紀子 【音響】渥美光(劇団うみねこ) 【人形制作・操演指導】後藤カツキ(トランク機械シアター) 【衣装】大坂友里絵 【制作】大川ちよみ 【舞台美術・小道具】 劇団怪獣無法地帯 【舞台監督】棚田満/後藤カツキ 【演出助手】足立泰雅 【宣伝美術】新井田琴江 【受付】川原まみ/小川しおり 【協力】さっぽろアートステージ2023実行委員会、札幌劇場連絡会 ※スペシャルサンクスは省略しました。
【雑感】
●「黒電話」の宿す力
電話が鳴る、電話をとる、話す、切る。
50代が故のノスタルジーは、その光景をほほえましくもさえ思わせてしまう。
それだけのこと、では、終わらなかった。
舞台を「小説」の中に溶け込ませる役割を負ったのは、黒電話だ。
舞台装置や道具は、脚本と演出の意図する時代、場所、背景などを移す素材として使われる。しっかりと建て込んだ舞台は、場所や背景を揺るぎの少ない舞台環境を役者に提供することで、芝居を後押しする。装置を建て込まずに道具などを配置することで状況を示す場合もあれば、特徴的な道具に芝居の重要な役割を任せる場合もある。
本作品では、電話で小説家とつながった者たちが、次々と小説家宅にやってきて、最後の作品づくりに巻き込まれていく。現代では使われることのない黒電話であるが故に、やってきた者たちが異世界へ連れてこられた、時間というか時空を超えてその場に集まった感覚を観客に印象付けている。黒電話が使われていた時代との時間的な距離感が、絶妙なのだ。
「FANTASY」は、黒電話から始まったのだ。
●アルファベットである理由
次々と登場する役者はアルファベットで識別されることとなる。役名は、ほぼ意味をなさないようだ。AからI、そしてYの10のアルファベットは一体何を意味するのか。雑感を書くに至ってもまだ意味を見いだせていない。ファンタジーの7文字を構成するわけでもない。多分、抽象的な存在とするためと、登場順に何らかの意味を持たせて、その順番を幾度も繰り返すことが必要だったため、ということだろうか。電話を受けた順とも思えるので、脚本上で手順をそろえる方法として用いたのかもしれない。
ただ、いまも気にはなっている。
・・・そして観劇から1年が経過し・・・FANTASYとは何だったのか、アルファベットの意味は何なのだろうか。単にアルファベットの最後のZではちょうどいい名前がなく、そのひとつ前のYを使っただけ、Aから順番にそろえてIまであっただけ、ということでいいんじゃないかと思っている。
●伊勢谷和馬と四ツ谷幽の入れ替わり
小説家はY、四ツ谷幽だ。Yに付き従うのがI(アイ)、伊勢谷和馬だ。この入れ替わりが作品の混沌を決定づけている。Yの持つ不確実さや不安定さを四ツ谷幽という名前とイニシャルに投影し、自分を意味するI(アイ)を自己主張として伊勢谷和馬に託したのかもしれない。故に、伊勢谷は四ツ谷と入れ替わることになったのではなかろうか・・・とまでなると、邪推ではある。
●老舗であり老舗ではない劇団怪獣無法地帯
劇団名からなんとなく敬遠してきた、劇団怪獣無法地帯。棚田さんのお名前はもちろん知っているが、内弁慶な自分はついぞこの機会までご本人を見たことはなかった。前説での風景を見ると、観劇の期間の長短を問わず、この劇団を支えている観客が数多くいることがわかる。それも、劇団と観客が近い距離間で。その一方で登場する役者は決して老舗感満載の妙齢ぞろい、というわけではない。幅広い年齢構成での舞台を提供しているのは、ひとえに棚田さんの年齢や経験だけではない積み重ねによるものだろう。
そして今もなお、棚田さんの年齢を僕は知らないし、知ろうとしていない。それでいいのだ。
2023年11月23日(木)19:30~ BLOCH 劇団怪獣無法地帯
第36回公演 「FANTASY/ファンタジー」
【舞台の概要】
●フライヤーより
謎の死を遂げた人気小説家、Y。その死後、小説家のファンたちが彼の家の裏にある墓地に集まってくる。彼らの目的は小説家の遺言を実行すること_。「僕の最後の作品、『FANTASY』を完成させてほしい」。Yに与えられた登場人物を演じ始めるファンたちは登場人物が自分によく似ていることに気付く。さらにまるでYの作品の中に出てくるような女・Aが現れ、物語は混乱を増していくが_。劇団怪獣無法地帯が送る大人の悪魔系ファンタジー。ゴシック×人形×ミステリー。
【出演】※役名(よみ)/役者の順
A:杏(あん)/新井田琴江、B:馬喰辰巳(ばくろたつみ)/棚田満、C:茅ヶ崎余(ちがさきあまる)/前田叶愛、D:伊達雅代/太田有香(劇団ひまわり)、E:海老名理央(えびなりお)/のしろゆうこ(intro)、F:福井福(ふくいふく)/赤沢夢望、G:蒲生嬉々(がもうきき)/伊藤しょうこ、H:日高康隆(ひだかやすたか)/小松悟、I:伊勢谷和馬(いせやかずま)/足立泰雅、Y:四ツ谷幽(よつやゆう)/むらかみ智大 黒衣/原田充子
【脚本・演出】新井田琴江 【照明】松本紀子 【音響】渥美光(劇団うみねこ) 【人形制作・操演指導】後藤カツキ(トランク機械シアター) 【衣装】大坂友里絵 【制作】大川ちよみ 【舞台美術・小道具】 劇団怪獣無法地帯 【舞台監督】棚田満/後藤カツキ 【演出助手】足立泰雅 【宣伝美術】新井田琴江 【受付】川原まみ/小川しおり 【協力】さっぽろアートステージ2023実行委員会、札幌劇場連絡会 ※スペシャルサンクスは省略しました。
【雑感】
●「黒電話」の宿す力
電話が鳴る、電話をとる、話す、切る。
50代が故のノスタルジーは、その光景をほほえましくもさえ思わせてしまう。
それだけのこと、では、終わらなかった。
舞台を「小説」の中に溶け込ませる役割を負ったのは、黒電話だ。
舞台装置や道具は、脚本と演出の意図する時代、場所、背景などを移す素材として使われる。しっかりと建て込んだ舞台は、場所や背景を揺るぎの少ない舞台環境を役者に提供することで、芝居を後押しする。装置を建て込まずに道具などを配置することで状況を示す場合もあれば、特徴的な道具に芝居の重要な役割を任せる場合もある。
本作品では、電話で小説家とつながった者たちが、次々と小説家宅にやってきて、最後の作品づくりに巻き込まれていく。現代では使われることのない黒電話であるが故に、やってきた者たちが異世界へ連れてこられた、時間というか時空を超えてその場に集まった感覚を観客に印象付けている。黒電話が使われていた時代との時間的な距離感が、絶妙なのだ。
「FANTASY」は、黒電話から始まったのだ。
●アルファベットである理由
次々と登場する役者はアルファベットで識別されることとなる。役名は、ほぼ意味をなさないようだ。AからI、そしてYの10のアルファベットは一体何を意味するのか。雑感を書くに至ってもまだ意味を見いだせていない。ファンタジーの7文字を構成するわけでもない。多分、抽象的な存在とするためと、登場順に何らかの意味を持たせて、その順番を幾度も繰り返すことが必要だったため、ということだろうか。電話を受けた順とも思えるので、脚本上で手順をそろえる方法として用いたのかもしれない。
ただ、いまも気にはなっている。
・・・そして観劇から1年が経過し・・・FANTASYとは何だったのか、アルファベットの意味は何なのだろうか。単にアルファベットの最後のZではちょうどいい名前がなく、そのひとつ前のYを使っただけ、Aから順番にそろえてIまであっただけ、ということでいいんじゃないかと思っている。
●伊勢谷和馬と四ツ谷幽の入れ替わり
小説家はY、四ツ谷幽だ。Yに付き従うのがI(アイ)、伊勢谷和馬だ。この入れ替わりが作品の混沌を決定づけている。Yの持つ不確実さや不安定さを四ツ谷幽という名前とイニシャルに投影し、自分を意味するI(アイ)を自己主張として伊勢谷和馬に託したのかもしれない。故に、伊勢谷は四ツ谷と入れ替わることになったのではなかろうか・・・とまでなると、邪推ではある。
●老舗であり老舗ではない劇団怪獣無法地帯
劇団名からなんとなく敬遠してきた、劇団怪獣無法地帯。棚田さんのお名前はもちろん知っているが、内弁慶な自分はついぞこの機会までご本人を見たことはなかった。前説での風景を見ると、観劇の期間の長短を問わず、この劇団を支えている観客が数多くいることがわかる。それも、劇団と観客が近い距離間で。その一方で登場する役者は決して老舗感満載の妙齢ぞろい、というわけではない。幅広い年齢構成での舞台を提供しているのは、ひとえに棚田さんの年齢や経験だけではない積み重ねによるものだろう。
そして今もなお、棚田さんの年齢を僕は知らないし、知ろうとしていない。それでいいのだ。
最近のコメント