2024/11/1 トランク機械シアター 「ねじまきロボットα(アルファ)~こども王国の秘宝~」 ― 2024/12/06
TGR2024、2024/12/5に表彰式が終了した。
TGR2023の観劇雑感を書き終えていないが、並行して書いていきたい。
TGR2024は、トランク機械シアター「ねじまきロボットα(アルファ)~こども王国の秘宝~」から書いてみたい。
~~ フライヤーより ~~
天才発明家“ノーブル”は、誰でもこどもに戻すことができる機械“こどもライト”を発明しました。
ノーブルは言いました。“これで世界を平和にできる”
彼はこども王国を作りましたが、“こどもライト”の取り合いが!
え!?スーツ大臣!君に“こどもライト”は渡さない!
ちょっと!つぎはぎ、だめだよ!これはあそびじゃないんだよ!
トランク機械シアターの人形(ほぼ)総出演!
世界を平和にするために、アルファーたちが考えた結末とは!?
それでも!ぼくの夢は、世界中のみんなと、おともだちになること!
【出演】縣 梨恵、石鉢もも子(ウェイビジョン)、後藤カツキ、さとうともこ、恒本礼透・寺本彩乃(CAPSULE)、原田充子、三島祐樹、森高麻由、よっしー
【作・演出】立川圭吾 【演出助手】笹浪和澄 【小道具】縣梨恵 【照明】立川圭吾 【音楽制作】三島祐樹@らば 【音響】橋本一生 【人形デザイン・チラシイラスト】チュウゲン 【人形制作】後藤カツキ・さとうともこ 【チラシデザイン】飛世早哉香(OrgofA/in the Box) 【企画・制作】一般社団法人トランク機械シアター (※一部省略しました)
~~ 雑感 ~~
●あ、立川佳吾くん(・・・さん、ですね)。
2023TGR対象エントリー作品の雑感で書いたが、本人とは縁がないものの周囲とは縁がある立川圭吾さん。やっぱりいろいろお話聞いてみたいなぁ。でも、正体不明の僕に「あの~」と話しかけられても、困るだろうな(笑) ・・・今年も話しかけられなかった11月(笑)。
※ちなみに、TGR2024表彰式で少しお話できました。うれしかったぁ~緊張したぁ~!そしてアルファと握手できた!これもうれしかった♪
●緞帳、中割幕、花道を使いこなすトランク機械シアター
緞帳や中割幕を使うか使わないかで、演出は変わる。役者の導線も違う。そこに花道があるわけだから、どう使おうかを色々と考えることになる・・・かもしれない。
札幌の小劇場は、緞帳がない。袖のスペースも十分な広さとは言えない。下北沢のいくつかの小劇場での観劇の印象も同様である。こうした小劇場の場合、デハケやカミシモの役者の移動、小道具などの配置に何らかの制約がある。演出や舞台監督はなかなか苦労する。
劇場が変わると舞台の使い方が変わるので、なんとなくの印象ではあるが、劇団はそれぞれホームとしている劇場があるように思う。やまびこ座をホームとしているであろうトランク機械シアターは、やはり緞帳や中割幕、花道の使い方が上手いなあ、と率直に思った。これは、「使わない」という選択を含めてである。
ふと考えたのだか、「使わない」上手さはやまびこ座の舞台の作りよりも大きな劇場でこそ生かされるものかもしれない。小劇場は、使うも使わないも選択肢が少なめとなるため、「削ぎ落す」作業までは要しない場合が多いのではないだろうか。もちろん、フォーカスをどこにどのように動かすのかを考えながら、役者の動きや照明や音響の構成を作り上げていく苦労はどのステージでも同じであり、「使う」「使わない」といったことを単純に比較はできないが。
少なくとも、舞台の使い道が数多くなればなるほど、ステージは大きくなればなるほど、フォーカスのサイズや動かし方、お客様の視界を意識して舞台の使い方を考えることが必要になるだろう。逆に言うと、フォーカスの作り方やコントロールが上手いと、どんなスペースでも対応可能、ということになる。
トランクの皆さんは、各地で公演を行う中で、舞台空間を使う技術を、演出も演者も磨いてきたように改めて感じた。
ただ、今回は舞台の使い方に戸惑いというか、花道で演者がタイミングを伺う気配を感じた。新作とのこと、そのせいもあるのか、人形ほぼ大集合状態での人形同士の関係性を感じ切れていない僕の観劇における戸惑いなのか、そのあたりはわからない。僕の思い違いということもある。
●演者は全員マスクなし。本来の姿での実力。
すでに前述で「演者」と表現し、TGR2023の観劇雑感で記載したが、役者と人形遣いが混在することから、トランク機械シアターでは舞台上に登場する「人間」を演者、と統一する。
今回の演者は全員マスクなしだった。これが本来の姿なのだろう。昨年のアスク着用の時と比べると、演者の表情の豊かさが深い演技へとつながっている。演者と人形が一体であり別々である背反的な姿は、「絵本と読み聞かせる人」の関係と「≒」だと思う。人形のみが登場する人形劇、影絵劇とは違うし、使い手(と言うのか?)がほぼ無表情で人形がすべてを表現する文楽とも違う。演者と人形の間を感情や演技が往来している感覚が、僕はとても楽しいし素敵だと感じた。
演じるうえでの演者の心がけなどを聞いてみたいと思った。
●なんか気になる、後藤カツキさん。
この雑感のほとんどは2024年11月30日に記述し、最終的には12月5日の夜に文章の調整(校正ではない)を行っている。
2024年11月29日、BLOCHで劇団怪獣無法地帯第38回公演「全員、青い」を観てきた。トランク機械シアターに出演していた後藤カツキさんが出演していた。彼の存在そのものが、舞台で主要な役割を果たしていると感じた。トランク機械シアターの「つぎはぎ」はもちろん主要なキャストであるが、怪獣無法地帯では「欠かせない」が「主要とは言えない」キャストだったと思う。
どちらのキャストも、目が離せなかった。舞台空間に存在する必要があるキャストであった。それは、書道の作品づくりの際に感じる「空間を支配する力」や「作品の構成上必要な配置」と通じる感覚である。簡単に言うと、白と黒のバランスである。「黒」の文字の形が「白」の紙を生かし、「白」が「黒」を生かす絶妙なバランスを生み出す存在感である。
後藤カツキさんは、感覚的に、なんか気になる役者なのである。
●かわいかったなぁ、ちっちゃいつぎはぎとおっきいノーブル。
こどもライトで小さくなったつぎはぎは「うぃーんガシャン」ではないし子どもだしわがままだし、とにかく幼子であることがとてもかわいかった。・・・てか、ここも後藤カツキさんの話、ではある。
そして、大人なのに幼子で一途な感じに見えたのが、天才発明家ノーブル。恒本礼透さんは少し透明感のあるわがままさ、頑固さがとても配役とぴったりだった。あの白と青の衣装が似合うのは、ブルーベースの人なのだろう。そこに少し訥弁のような話し方が、「子ども」という状態へのリスペクトを持つノーブルという人物を形作ったのだと思う。
こども王国の所以は、ノーブルにあることをはっきりと示していると感じた配役、設定だった。
前述した演者に聞きたいこととともに、機会があれば、トランク機械シアターの、ホンの発想のベース、人形と演者に対する演出について立川さんに聞いてみたいところである。
TGR2023の観劇雑感を書き終えていないが、並行して書いていきたい。
TGR2024は、トランク機械シアター「ねじまきロボットα(アルファ)~こども王国の秘宝~」から書いてみたい。
~~ フライヤーより ~~
天才発明家“ノーブル”は、誰でもこどもに戻すことができる機械“こどもライト”を発明しました。
ノーブルは言いました。“これで世界を平和にできる”
彼はこども王国を作りましたが、“こどもライト”の取り合いが!
え!?スーツ大臣!君に“こどもライト”は渡さない!
ちょっと!つぎはぎ、だめだよ!これはあそびじゃないんだよ!
トランク機械シアターの人形(ほぼ)総出演!
世界を平和にするために、アルファーたちが考えた結末とは!?
それでも!ぼくの夢は、世界中のみんなと、おともだちになること!
【出演】縣 梨恵、石鉢もも子(ウェイビジョン)、後藤カツキ、さとうともこ、恒本礼透・寺本彩乃(CAPSULE)、原田充子、三島祐樹、森高麻由、よっしー
【作・演出】立川圭吾 【演出助手】笹浪和澄 【小道具】縣梨恵 【照明】立川圭吾 【音楽制作】三島祐樹@らば 【音響】橋本一生 【人形デザイン・チラシイラスト】チュウゲン 【人形制作】後藤カツキ・さとうともこ 【チラシデザイン】飛世早哉香(OrgofA/in the Box) 【企画・制作】一般社団法人トランク機械シアター (※一部省略しました)
~~ 雑感 ~~
●あ、立川佳吾くん(・・・さん、ですね)。
2023TGR対象エントリー作品の雑感で書いたが、本人とは縁がないものの周囲とは縁がある立川圭吾さん。やっぱりいろいろお話聞いてみたいなぁ。でも、正体不明の僕に「あの~」と話しかけられても、困るだろうな(笑) ・・・今年も話しかけられなかった11月(笑)。
※ちなみに、TGR2024表彰式で少しお話できました。うれしかったぁ~緊張したぁ~!そしてアルファと握手できた!これもうれしかった♪
●緞帳、中割幕、花道を使いこなすトランク機械シアター
緞帳や中割幕を使うか使わないかで、演出は変わる。役者の導線も違う。そこに花道があるわけだから、どう使おうかを色々と考えることになる・・・かもしれない。
札幌の小劇場は、緞帳がない。袖のスペースも十分な広さとは言えない。下北沢のいくつかの小劇場での観劇の印象も同様である。こうした小劇場の場合、デハケやカミシモの役者の移動、小道具などの配置に何らかの制約がある。演出や舞台監督はなかなか苦労する。
劇場が変わると舞台の使い方が変わるので、なんとなくの印象ではあるが、劇団はそれぞれホームとしている劇場があるように思う。やまびこ座をホームとしているであろうトランク機械シアターは、やはり緞帳や中割幕、花道の使い方が上手いなあ、と率直に思った。これは、「使わない」という選択を含めてである。
ふと考えたのだか、「使わない」上手さはやまびこ座の舞台の作りよりも大きな劇場でこそ生かされるものかもしれない。小劇場は、使うも使わないも選択肢が少なめとなるため、「削ぎ落す」作業までは要しない場合が多いのではないだろうか。もちろん、フォーカスをどこにどのように動かすのかを考えながら、役者の動きや照明や音響の構成を作り上げていく苦労はどのステージでも同じであり、「使う」「使わない」といったことを単純に比較はできないが。
少なくとも、舞台の使い道が数多くなればなるほど、ステージは大きくなればなるほど、フォーカスのサイズや動かし方、お客様の視界を意識して舞台の使い方を考えることが必要になるだろう。逆に言うと、フォーカスの作り方やコントロールが上手いと、どんなスペースでも対応可能、ということになる。
トランクの皆さんは、各地で公演を行う中で、舞台空間を使う技術を、演出も演者も磨いてきたように改めて感じた。
ただ、今回は舞台の使い方に戸惑いというか、花道で演者がタイミングを伺う気配を感じた。新作とのこと、そのせいもあるのか、人形ほぼ大集合状態での人形同士の関係性を感じ切れていない僕の観劇における戸惑いなのか、そのあたりはわからない。僕の思い違いということもある。
●演者は全員マスクなし。本来の姿での実力。
すでに前述で「演者」と表現し、TGR2023の観劇雑感で記載したが、役者と人形遣いが混在することから、トランク機械シアターでは舞台上に登場する「人間」を演者、と統一する。
今回の演者は全員マスクなしだった。これが本来の姿なのだろう。昨年のアスク着用の時と比べると、演者の表情の豊かさが深い演技へとつながっている。演者と人形が一体であり別々である背反的な姿は、「絵本と読み聞かせる人」の関係と「≒」だと思う。人形のみが登場する人形劇、影絵劇とは違うし、使い手(と言うのか?)がほぼ無表情で人形がすべてを表現する文楽とも違う。演者と人形の間を感情や演技が往来している感覚が、僕はとても楽しいし素敵だと感じた。
演じるうえでの演者の心がけなどを聞いてみたいと思った。
●なんか気になる、後藤カツキさん。
この雑感のほとんどは2024年11月30日に記述し、最終的には12月5日の夜に文章の調整(校正ではない)を行っている。
2024年11月29日、BLOCHで劇団怪獣無法地帯第38回公演「全員、青い」を観てきた。トランク機械シアターに出演していた後藤カツキさんが出演していた。彼の存在そのものが、舞台で主要な役割を果たしていると感じた。トランク機械シアターの「つぎはぎ」はもちろん主要なキャストであるが、怪獣無法地帯では「欠かせない」が「主要とは言えない」キャストだったと思う。
どちらのキャストも、目が離せなかった。舞台空間に存在する必要があるキャストであった。それは、書道の作品づくりの際に感じる「空間を支配する力」や「作品の構成上必要な配置」と通じる感覚である。簡単に言うと、白と黒のバランスである。「黒」の文字の形が「白」の紙を生かし、「白」が「黒」を生かす絶妙なバランスを生み出す存在感である。
後藤カツキさんは、感覚的に、なんか気になる役者なのである。
●かわいかったなぁ、ちっちゃいつぎはぎとおっきいノーブル。
こどもライトで小さくなったつぎはぎは「うぃーんガシャン」ではないし子どもだしわがままだし、とにかく幼子であることがとてもかわいかった。・・・てか、ここも後藤カツキさんの話、ではある。
そして、大人なのに幼子で一途な感じに見えたのが、天才発明家ノーブル。恒本礼透さんは少し透明感のあるわがままさ、頑固さがとても配役とぴったりだった。あの白と青の衣装が似合うのは、ブルーベースの人なのだろう。そこに少し訥弁のような話し方が、「子ども」という状態へのリスペクトを持つノーブルという人物を形作ったのだと思う。
こども王国の所以は、ノーブルにあることをはっきりと示していると感じた配役、設定だった。
前述した演者に聞きたいこととともに、機会があれば、トランク機械シアターの、ホンの発想のベース、人形と演者に対する演出について立川さんに聞いてみたいところである。
オパンポン創造社20周年記念公演 「幸演会」 ― 2024/11/03
多少は手元で書き進めてはいたので、1年経っても雑感をどうにか書けています。
2023年11月21日(火)19:00~ シアターZOO オパンポン創造社
20周年記念公演 「幸演会」
【舞台の概要】
●フライヤーより
何もかも失った気がした、2003年。「なにがなくとも幸せになれる」と謳いながら裸踊りをする男性を代表とする団体「幸演会」と出会った。彼らは裸踊りだけでなく炊き出しなどで、人々に幸せを届けることを理念に掲げていた。しかしそれはあくまで表向きで、その実態は・・・。幸演会での20年、これは本当の物語。オパンポン創造社20周年記念公演「幸演会」で札幌初公演。
【出演】※役名(よみ)/役者の順
高山 実(たかやま みのる)/殿村ゆたか(Melon All Stsrs)、菅 想太(すが そうた)/松木賢三(テノヒラサイズ)、土井 直子(どい なおこ)/高橋映美子、井上 梨絵(いのうえ りえ)/成瀬遥、山本 吉一(やまもと きいち)/川添公二(テノヒラサイズ)、吉田 公康(よしだ こうへい)/中川浩六(三等フランソワーズ)、野村 ひさし(のむら ひさし)/野村有志
【脚本・演出】野村有志 【演出協力】美香本響、一瀬尚代 【音響】浅葉修 【照明】根来直義 【照明オペ】石田光羽 【舞台監督】西野真梨子 【音楽】浜間空洞 【舞台美術】久太郎 【宣伝美術】勝山修平 【舞台写真】木山梨菜 【衣装協力】中西綾香 【特設サイト】三村るな 【制作】小室明子、若旦那家康 【主催】ラボチ 【制作協力】吉本興業 【協力】さっぽろ天神山アートスタジオ、さっぽろアートステージ2023実行委員会、札幌劇場連絡会【全創造】オパンポン創造社
※演出以降の個人にかかる所属等は省略しました。
【雑感】
●舞台上では小さく見えた「野村ひさし」
終焉後、ロビーに出ると物販に立つ野村ひさし、いや、野村有志さんがいた。旧知のお客様がいらしたらしく、皆さんのお相手をしながらの物販。照明の数と種類の多さについて少しだけ伺いたくて物販をみつつ様子を窺っていたところ、いかがですか、とお声がけいただいた。
でかい。
こんなにでかかったんだ・・・舞台では小さく見えたのになぁ・・・これも役者のチカラか・・・それともみんなでかかっただけか・・・そうか、照明はかなりの数を大阪から持ってきたんだ・・・でかいなぁ・・・いや、物販には興味ないんだよなぁ・・・
●記憶からホンを表現してみる、ストーリーを辿っているとは言えないが
孤独と能力の無さに苛まれ、居場所を探していた時に出会った「幸演会」。「なにがなくとも幸せになれる」と裸踊りをする高山、小さな太鼓で調子を合わせる吉田、炊き出しに勤しむ井上、寄付を集めようとサクラを演じる土井と山本、金勘定いや運営を担当する菅、そこに救いとシンパシーを感じた野村。
サクラを演じようとしてうまくできなかったことがかえって功を奏し、そこからホンを書き出し、「幸演会」をまねる団体が出始め、野村自身が客演に出かけ、売れ、グッズ販売や新たなホンで脚光を浴び、でも幸演会は崩れ始め、そして誰もいなくなった。
理想を掲げていた高山は理想の中に息絶え、理想を追い求めていた吉田は世俗にまみれ、頼ることで生きていた菅は世俗の中に消え、今いる場所に幸せを見出そうとしていた井上は世俗に生き続け、自分の中にのみ生きていた山本は自滅の中に情けをかけられ、信じるものに裏切られた土井はゲロを吐き散らかしすべてを流し去った。
登場した誰しもが自分を信じ、信じられず、厳しく、甘く、浮つき、落ち込み、また翌朝を迎え、いずれこの場から消え去る一生を生きていく途中にあって、途中のどのあたりかもわからず、どうなるかもなりたいかもわからず、それでも生きていく。
結局は褌一丁、人生裸踊りだ。
●ニシの笑いに反応しちゃう
ツッコミの間、展開がまあまあ配置されていたわけで、会場で笑い声につながってはいなかったが、僕はひとり噴出しかけていた。いや、たぶん僕だけではなくご来場の方々の幾人かの方々もそうだろう。反応することを控えがちな雰囲気というか心理的環境が、札幌にはまだあると思っている。映画館で笑い出せない、あの感じを僕もまだまだ持っている。
思わず笑っちゃえばよかったなぁ。
●照明と円を使った舞台6分割
市内劇場の照明機材のそろい具合を、現状で知っているわけではない。舞台監督でかかわったのはZOO、BLOCH、パトス、やまびこ座が10年以上前、コンカリやレッドベリーは観劇のみ、近年は先日閉館したマルチスペース・エフ(2024/1/21閉館)のみ。
オパンポン創造社は、大量の照明を持ち込んだ。今回の札幌演劇祭で観劇した、ZOOでのどの舞台よりも、数多くの照明が吊ってあった。それだけで見惚れた(のはどうかと自分でも思う)。
舞台上には円を描き、円の外側と内側、外側はさらにオクとハナ、カミシモで4分割、円のライン上と内側を使い分けることもあった。
展開に応じていくつかの空間が同時に、別空間として存在し、空間の行き来が極めて違和感のない舞台構成となっていることに高い実力を感じた。
●先入観とは事程左様に
客席に座り、観劇の準備を整える一連に、当日のフライヤーをさらりと見る工程がある。
じっくりは見ない。意外といろいろと書いているので、先に考えたり想像してしまう
当日のフライヤーにこんな記載があった。
「本作は自身の20年をつづった物語」
「劇中J-POPが数曲流れますが、・・・あの日の公演を思い出させる」
「自叙伝と謳いながらも・・・一物語として気楽に観劇くださればなにより」
いろいろと書き連ねていた。
前節でも、そのことに触れて舞台が開演した。
そのせいだろうか、野村さんにこの時期に何があったのか・・・などとついつい考えてしまった。
観るほどに考え、考えるほどに観てしまったため、直後には雑感を書くまでにアタマがまとまらなかった。
あれから2か月半が経過して、観劇の記憶から自叙伝の要素が薄れたことで、ようやく全体を通じて登場した裸踊りが意味を持って浮かび上がってきた。
先入観とは、これほどまでに思考を縛る、感じ方を制限するものだと痛感した舞台だった。
2023年11月21日(火)19:00~ シアターZOO オパンポン創造社
20周年記念公演 「幸演会」
【舞台の概要】
●フライヤーより
何もかも失った気がした、2003年。「なにがなくとも幸せになれる」と謳いながら裸踊りをする男性を代表とする団体「幸演会」と出会った。彼らは裸踊りだけでなく炊き出しなどで、人々に幸せを届けることを理念に掲げていた。しかしそれはあくまで表向きで、その実態は・・・。幸演会での20年、これは本当の物語。オパンポン創造社20周年記念公演「幸演会」で札幌初公演。
【出演】※役名(よみ)/役者の順
高山 実(たかやま みのる)/殿村ゆたか(Melon All Stsrs)、菅 想太(すが そうた)/松木賢三(テノヒラサイズ)、土井 直子(どい なおこ)/高橋映美子、井上 梨絵(いのうえ りえ)/成瀬遥、山本 吉一(やまもと きいち)/川添公二(テノヒラサイズ)、吉田 公康(よしだ こうへい)/中川浩六(三等フランソワーズ)、野村 ひさし(のむら ひさし)/野村有志
【脚本・演出】野村有志 【演出協力】美香本響、一瀬尚代 【音響】浅葉修 【照明】根来直義 【照明オペ】石田光羽 【舞台監督】西野真梨子 【音楽】浜間空洞 【舞台美術】久太郎 【宣伝美術】勝山修平 【舞台写真】木山梨菜 【衣装協力】中西綾香 【特設サイト】三村るな 【制作】小室明子、若旦那家康 【主催】ラボチ 【制作協力】吉本興業 【協力】さっぽろ天神山アートスタジオ、さっぽろアートステージ2023実行委員会、札幌劇場連絡会【全創造】オパンポン創造社
※演出以降の個人にかかる所属等は省略しました。
【雑感】
●舞台上では小さく見えた「野村ひさし」
終焉後、ロビーに出ると物販に立つ野村ひさし、いや、野村有志さんがいた。旧知のお客様がいらしたらしく、皆さんのお相手をしながらの物販。照明の数と種類の多さについて少しだけ伺いたくて物販をみつつ様子を窺っていたところ、いかがですか、とお声がけいただいた。
でかい。
こんなにでかかったんだ・・・舞台では小さく見えたのになぁ・・・これも役者のチカラか・・・それともみんなでかかっただけか・・・そうか、照明はかなりの数を大阪から持ってきたんだ・・・でかいなぁ・・・いや、物販には興味ないんだよなぁ・・・
●記憶からホンを表現してみる、ストーリーを辿っているとは言えないが
孤独と能力の無さに苛まれ、居場所を探していた時に出会った「幸演会」。「なにがなくとも幸せになれる」と裸踊りをする高山、小さな太鼓で調子を合わせる吉田、炊き出しに勤しむ井上、寄付を集めようとサクラを演じる土井と山本、金勘定いや運営を担当する菅、そこに救いとシンパシーを感じた野村。
サクラを演じようとしてうまくできなかったことがかえって功を奏し、そこからホンを書き出し、「幸演会」をまねる団体が出始め、野村自身が客演に出かけ、売れ、グッズ販売や新たなホンで脚光を浴び、でも幸演会は崩れ始め、そして誰もいなくなった。
理想を掲げていた高山は理想の中に息絶え、理想を追い求めていた吉田は世俗にまみれ、頼ることで生きていた菅は世俗の中に消え、今いる場所に幸せを見出そうとしていた井上は世俗に生き続け、自分の中にのみ生きていた山本は自滅の中に情けをかけられ、信じるものに裏切られた土井はゲロを吐き散らかしすべてを流し去った。
登場した誰しもが自分を信じ、信じられず、厳しく、甘く、浮つき、落ち込み、また翌朝を迎え、いずれこの場から消え去る一生を生きていく途中にあって、途中のどのあたりかもわからず、どうなるかもなりたいかもわからず、それでも生きていく。
結局は褌一丁、人生裸踊りだ。
●ニシの笑いに反応しちゃう
ツッコミの間、展開がまあまあ配置されていたわけで、会場で笑い声につながってはいなかったが、僕はひとり噴出しかけていた。いや、たぶん僕だけではなくご来場の方々の幾人かの方々もそうだろう。反応することを控えがちな雰囲気というか心理的環境が、札幌にはまだあると思っている。映画館で笑い出せない、あの感じを僕もまだまだ持っている。
思わず笑っちゃえばよかったなぁ。
●照明と円を使った舞台6分割
市内劇場の照明機材のそろい具合を、現状で知っているわけではない。舞台監督でかかわったのはZOO、BLOCH、パトス、やまびこ座が10年以上前、コンカリやレッドベリーは観劇のみ、近年は先日閉館したマルチスペース・エフ(2024/1/21閉館)のみ。
オパンポン創造社は、大量の照明を持ち込んだ。今回の札幌演劇祭で観劇した、ZOOでのどの舞台よりも、数多くの照明が吊ってあった。それだけで見惚れた(のはどうかと自分でも思う)。
舞台上には円を描き、円の外側と内側、外側はさらにオクとハナ、カミシモで4分割、円のライン上と内側を使い分けることもあった。
展開に応じていくつかの空間が同時に、別空間として存在し、空間の行き来が極めて違和感のない舞台構成となっていることに高い実力を感じた。
●先入観とは事程左様に
客席に座り、観劇の準備を整える一連に、当日のフライヤーをさらりと見る工程がある。
じっくりは見ない。意外といろいろと書いているので、先に考えたり想像してしまう
当日のフライヤーにこんな記載があった。
「本作は自身の20年をつづった物語」
「劇中J-POPが数曲流れますが、・・・あの日の公演を思い出させる」
「自叙伝と謳いながらも・・・一物語として気楽に観劇くださればなにより」
いろいろと書き連ねていた。
前節でも、そのことに触れて舞台が開演した。
そのせいだろうか、野村さんにこの時期に何があったのか・・・などとついつい考えてしまった。
観るほどに考え、考えるほどに観てしまったため、直後には雑感を書くまでにアタマがまとまらなかった。
あれから2か月半が経過して、観劇の記憶から自叙伝の要素が薄れたことで、ようやく全体を通じて登場した裸踊りが意味を持って浮かび上がってきた。
先入観とは、これほどまでに思考を縛る、感じ方を制限するものだと痛感した舞台だった。
星くずロンリネス短編演劇オムニバス公演 「くずテレビ」 ― 2024/11/03
ほぼ1年前の公演の雑感を今頃書いている・・・遅筆にもほどがある、と反省。引き続きTGR2023の作品です。
2023年11月19日(日)11:00~ BLOCH 星くずロンリネス
短編演劇オムニバス公演 「くずテレビ」
【舞台全体の概要】
●フライヤーより
星くずロンリネス約5年半ぶりの単独公演!総勢20名の役者と作る初上演の短編演劇4作品!言葉遊びやギミック満載!テレビを見るように気軽に見ることができるポップでキャッチーな短編演劇4作品を一挙上演!短編演劇の合間には映像企画も上映するなどお客様を飽きさせないワクワクをお届け!
【作・演出】上田龍成、【照明】手嶋浩二朗、【音響】山口愛由美、【制作】寺田彩乃、野澤麻未、【イラスト】AyaNee、【デザイン】むらかみなお ・・・他多数
~ 短編演劇4作品をそれぞれ ~
「緑の神」
【フライヤーより】
年老いた芸人は妻から離婚届を突き付けられていた。理由は「面白くなくなったから」。20年以上前、お笑いの賞レースに出たことを思い出す。若い頃の自分は明るい未来を信じていた。星くずロンリネスがお届けする過去の自分のため、未来の自分のため、必死になるおじさん芸人の物語。
【出演】※役名/役者の順
野上/宮沢りえ蔵(大悪党スペシャル)、みどり/小林なるみ(劇団回帰線)、今日のノガミ/遠藤洋平(ヒュー妄)、松永/野沢麻未(ウェイビジョン)
【ギャグ監修】Yes!アキト 【楽曲協力】つれづれぐさ 【声の出演】やすと横沢さん、上田龍成
【雑感】
●巧みで匠な二人
年老いた芸人の野上とその妻、宮沢りえ蔵さんと小林なるみさんがそれぞれ演じた。その経歴を詳しく知るわけでも調べたわけでもないが、札幌の演劇シーンで長く活躍しているお二人だということはさすがに承知している。
短編演劇オムニバスは、短編だけに背景を丁寧に描く時間がなく、結末に向けて展開が早いのが一般的であろう。その短編において、役柄そのものに、年齢も性格も関係も窺うことができる安心の中に芝居が始まるのは、脚本にも役者にも「柱の明確さ」が必要だと思う。脚本は後述するとして、その空間を違和感なく提供できるこの二人の役者の実力の高さを、最初に挙げたい。
●若い(であろう)二人の役者の安定感
観劇はしばらくぶりだ。そして、何か食指が動く要素がないと劇場には足を運ばないという偏屈な自分。最近、というよりも、身近な役者以外は知らない。この回に登場する遠藤洋平さん、野澤麻未さんはもちろん初見。そうか、最近の若い皆さんはこうも安定しているのか・・・などとひとりごち。特に遠藤洋平さんの他の姿を観てみたいと思った。
●脚本と配役、演出の妙
素直にこの短編をみると、過去と現在の「ノガミ」が入れ替わることでハッピーエンドにつながるファンタジー、である。僕は素直じゃないせいか、そうは感じられなかった。僕には、現在の野上のリアルな回想シーンが過去のノガミたち、と感じられた。つまりノガミは、彼の脳内で展開された野上の過去の記憶なのではないだろうか。
この短編では、時間経過を経ていることを考慮しても同一人物とは思えない役者が演じる「ノガミ」同士が入れ替わる。20年以上前のお笑いショーレースの本番前に大事な荷物を誤配する原因となった女性が「すいません」や「申し訳ありません」ではなく「ごめんなさい」と口語的に謝る。その女性が今の野上の妻であることはほぼ登場から想像されたが過去と現在の同一人物である女性の年齢の重ね方が想像できない二人の役者。
なぜ、僕は野上の脳内だと言えたのだろう、野上の過去の記憶と感じたのだろう。
改めて舞台を思い浮かべてみた。野上の宮沢りえ蔵さんとノガミの遠藤洋平さんの近似する目、松永の野瀬麻未さんとみどりの小林なるみさんの脚本でも実際でも年齢=時間という距離感。キャラクターのテンション、舞台スペースの照明を含めた切り分け、アングルの変化、フォーカスの作り方。つまりは、カット割りがはっきりしていて切り替わる映像のような作りがそうさせているのではないだろうか。
脚本、配役、演出が作り出した映像的舞台作品だ。
そしてオムニバス最初のこの短編の観劇の真っ最中、作・演出の上田龍成さんが映像ディレクターであることを、僕は知らない。
「ワイルドシングな恋」
【フライヤーより】
父親の影響で昔から男らしい趣味が好きだった彩月。田舎町から上京し、過去を隠して真っ黒なジャケットを着て、カリスマシティーガールとして仕事に生きる。そんな中で一目見た瞬間、電流が走るような衝撃的で運命の出会いを果たした彼氏だったが・・・。何度も嘘をつく汗と涙のブチギレ劇場!
【出演】※役名/役者の順
大岩彩月/森舞子(ハッピーポコロンパーク)、サンダー江崎/Roman(ヒュー妄)、五島弘道/楽太郎、大岩正平/つだあきひこ(ウェイビジョン)、田鍋ゆう/尾崎史尭(23Hz/北海学園大学演劇研究会)
【楽曲制作】前田透(劇団・木製ボイジャー14号/ヒュー妄)
【雑感】
●大岩親子のハマリ具合とギャップ
ここは文句なしっ、て感じ?である。大岩正平の父らしさというか年齢そのものが出ているつだあきひこさん、大岩彩月のプロレス好きな娘としての森舞子さん、この二人の配役が、まずはよかったのだと思う。その一方で、「男勝りを仕込む父」と「娘の見合い相手を探す父」のギャップは、ワンカットとしてはいいが舞台としての納得感が僕には足りなかった。
●男勝りと男らしい趣味好きと乙女と
シティーガールとプロレス好きと恋する女性とを行き来する大岩彩月。飲んだ席で五島弘道にプロレス好きを告白していた事実が判明するシーン以降、男勝りとプロレスが混ざり合っていったように思えた。男勝りと男らしい趣味好きは、脚本では切り分けたものだったのか、そうではないのか。恋する女性の立ち位置での彩月にとって、プロレス好きを隠す必要はあったとしても男勝りを隠す必要はあったのか、乙女は必要だったのか、ギャップとして乙女を配置したかったのか、バレる化けの皮として乙女を配置したかったのか。
オムニバスならではの、展開の速さやカット割りのような作りをみると、決して必要だと思ってはいないが滑らかな構成を、ついつい探りたくなる。
●BLOCHの劇場としての特徴をいかに使うか
BLOCHは、札幌市内の劇場のなかでは特に横長で、奥行きが浅めの劇場である。このため、カミシモの行き来は客席の下に設けられた通路を使う。舞台奥のホリゾントまたは大黒の裏側にスペースはない。加えて、客席から舞台袖を覗くことができるほど舞台ハナと客席前列が近く、カミシモ両サイドの客席からは舞台全体を見渡すことができない。
そんな特徴の劇場で、舞台上にモニターを複数配置して奥のスペースをカットし、短編の各シーンをヨコの配置で切り分け、少人数の役者でシーンを構成しつつ、幕間では映像作品をモニターで放映して「番組」化したのが、「くずテレビ」のテレビたる所以なのだろう。
「ワイルドシンクな恋」では、そこに役者によるタテの配置を入れることで奥行きを見せていた。さらに照明の明暗での舞台の切り分けを行いつつ「暗」側で役者を黒子としての活用し、舞台上のメンバーを限定することでせわしなさや雑多な印象を軽減していた。
基本的なBLOCHでの舞台構成は、劇団によって大きく変わらないとは思う。この後の短編で思い知ることになるのだが、星くずロンリネス、いや、たぶん上田龍成さんはこの劇場の使い方が抜群にうまいのではないだろうか。
なお、他の劇団との構成の比較をしっかりと行った結果ではない。あくまで印象、である。
あ、そういえば、BLOCHの前身ともいえるUNOも舞台は浅めだった。
※BLOCHの前身といえば「マリアテアトロ」だと思うが、僕にとってはマリア階下の「UNO」も含まれる。
●役者へのフォーカス、シーンやカットの切り取り方
「ワイルド・・・」で少々気になるシーンがあった。ストップモーションでの尾崎史尭さんの表情である。尾崎さん演じる「田鍋ゆう」の笑顔が、あいまいだった。あの笑顔が明快であれば、もっとシーンに起伏が出てきたのではないだろうか。彼の「女がプロレスなんて」というシーンの表情は、ストップモーションであろうがなかろうがまさにその顔!であった。舞台もシーンも、役者へのフォーカスで奥行きを深くも浅くも見せることができる、と改めて感じた。
ダークな面を含ませた表情の出来る尾崎さんはこれからが楽しみな役者である。あの顔は普段からやってるんじゃないか。隠してる「黒い尾崎」が出てるんじゃないか、などとついつい考えてしまう。とまあ、それはともかく、彼の明快な笑顔を観てみたい。それが、きっと本人と芝居と舞台上の奥行きを出してくれるに違いない・・・いや、実はもう持っていて、今回は見せていないだけかもしれないが。
・・・と、書き進めたところでふと思った。・・・笑顔のカットの棒立ち感・・・それか?・・・確かに「女がプロレスなんて」では、表情もさることながら役者から感情が噴き出していた。シーンやカットの切り取りが映像的と考えた場合、笑顔のカットは顔なのか、バストアップなのか、全身なのか。演出面で考えてもみたい部分である。
「長い一日」
【フライヤーより】
旦那が誘拐された妻は取り乱していた。付き添う妹と警察官。誘拐犯からの着信。警察からは逆探知するため、1分1秒でも時間を稼ぎ、通話をしてほしいと伝えられる。そこから彼女の長い長い一日が始まる。
星くずロンリネスが送る70年代誘拐サスペンスコメディ。
【出演】※役名/役者の順
姉/きゃめ(ハッピーポコロンパーク/劇団coyote)、妹/山木眞綾、刑事/大谷岱右(DACT)、誘拐犯/丹生尋基
【雑感】
●まきこだ~ポアロだ~
姉妹の口調が田中真紀子。そうきたか。刑事がポアロ?!そうか、70年代か、吹替か。
演出によるものかどうかはわからないが、やりやがったな、きゃめと大谷だいちゃん(率直な感想)。
●間、テンポ、動作の妙
きゃめとだいちゃんは知っていると言えば知っているが、よく知っているわけではない。その感じでの話だが、二人の舞台上での関係はリズム感のよいものだったし、僕にとっては安心感のある二人だった。そこに妹の山木さん、誘拐犯の丹生さんが入り、電話の音、驚きの表情と動作、慌てふためく光景といら立ちの加減、短編全体のテンポ、脚本の明快な構成が「技」として舞台空間をひとつにしていた。それは、電話をとる指先の表情(顔ではない、指先である)ひとつとっても、キャラクターとしてそこに佇むことができているからなのだろう。
これはね、この方々のための舞台だ。
●短編らしい短編、コメディらしいコメディ、そこから夢想するもの
構成は明快だ。キャラクターは明快だ。まさに短編でありコメディだ。それだけだ。それだけだからこそいい。だからキャラクターが残る。キャラクターしか残らない。
キャストをみてみる。誘拐犯はこの短編に必要な材料である。エッセンスではあってもスパイスとはなっていない脚本である。ほかのキャストはキャラクターとして存在した。その際、姉と妹のキャラクターが重なり、強弱で言えば姉が強く、妹が弱い。妹の存在感が舞台上で薄いわけでもなく弱いわけでもない。ちゃんと、いる。ただ、姉のキャラクターが強いのだ。それが悪目立ちするわけでもない。キャラクターとしては、姉>刑事>妹>誘拐犯、のバランスが今回のキャラクターと役者の配置の妙、であろう。
役者にとって舞台上のキャラクターとはなんだろう。役者も楽しんでいるし、それはそれでよさそうだ。他方、キャラクターが役者そのもののイメージとなり、役者そのものを示すアイコンになる懸念は持っておく必要はなかろうか。その役者がやりたいこととして様々なキャラクターがあって、それを様々な場面で演じる機会を得られるのは、幸せなことだ。そう思う一方で、ともすれば傾向として「強い」イメージのキャラクターにのみ配役されることになりはしないか、とも思う。
コメディに生きる役者、キャラクターの強い役者としてはきゃめもだいちゃんも絶品だ。
果たして、そうではないシーンに登場する彼らを僕は目にすることができるのだろうか、いや、観たいと思っているのだろうか。もしかしてそういう配役であったこともあるのかもしれないし、ただ僕が知らないだけなのだろう、僕には想像ができないだけなのだろう、とも思う。
故に、頭から指先、つま先まで神経の届く役者たちのこれからを、観ていきたい。
「白衣の女王」
【フライヤーより】
人気医療漫画「ホワイトクイーン」にまつわる3つの話。漫画の作者はバッドエンドしか描けなくなり、ファンの男は彼女から浮気を疑われ、漫画のモデルとなった外科医はミスをキッカケにオペが出来なくなっていた・・・。
「先生、僕の妻を助けて下さい!」
白衣の女王はハッピーエンドを生み出せるのか?
【出演】※役名/役者の順
白井/阿部星来(劇団パーソンズ)、近江/岡田健太郎、増井/塚本奈緒美、長田/小林エレキ、奥塚/野村大、大島/山田プーチン、猪俣/小西麻里菜
【楽曲制作】ぬいほたる
【雑感】
●ちょっとだけ話を整理してみる
人気漫画ホワイトクイーンの作者は奥塚先生、掲載誌の編集長は長田で担当編集者は増井、その漫画のファンはストッキングをかぶった大島で、大島と猪俣はつき合っている、ホワイトクイーンのモデルは白井先生で、白井先生に研修医時代にお世話になったのは近江。
シーン1
ストッキングをかぶった大島は、ホワイトクイーンの大ファンでハワイとクイーンになりたかったあまりコスプレするためにストッキングをかぶった。かぶったところに出くわした大島の恋人・猪俣は、ストッキングは誰の?何をしてるの?なに?もしかしてほかの女?浮気?そう、浮気なのね?!と激しく疑う。コスプレ?なぜ?ストッキング?!・・・疑いは晴れるのか、ストッキング大島?!
シーン2
「ホワイトクイーン」の作者・奥塚はスランプに陥っていた・・・もうバッドエンドしか書けない・・・漫画のモデル・白井先生のバッドな状況を取材してしまったから(か?)。ハッピーエンドを書こうとすると絵面が子供の絵になってしまう。奥塚の、ホワイトクイーンのファンでもある担当編集者・増井は「奥塚先生、ファンが待っています!」と奥塚を励ます。編集長の増井は、掲載誌の廃刊の危機に奥塚を励ますが、ハッピーエンドの絵面のひどさに、バッドエンドのバッドなエンドに、「もう廃刊だ~」と悶え苦しむ。書け!描け!ハッピーを描くんだ奥塚!
シーン3
白井先生、助けて下さい。僕、そう僕は近江です、研修医として白井先生にお世話になった近江です。妻が瀕死の重傷なんです!オペしてください!救急車よりも早く、救急車に妻を置いて突っ走ってこの診療所まで来ました!え?どうやって?走って!え?車より早く走れるのかって?そんなことはどうだっていい!本番ではそこまでふれてないじゃないか!ここでそんな話をせずに早く手術を!!え?ミスを引きずってメスは持てない?ミスでメスをメスがミスで?!いやだ・・・いやだ!助けて!助けて!ねえ、助けてヒーローっ!
※記載内容の一部に書きぶり上の脚色がありますが、ご容赦ください。
●ようやく雑感だ・・・人気漫画「ホワイトクイーン」を形作る3つのシーン
シーンは上記1から3の順に展開される。3つのシーンは医師の白井先生と漫画家の奥塚先生の両先生が取材という機会を通してつながっている背景がある以外、シーンを越えてキャストが直接つながっていない。軸は「ホワイトクイーン」という漫画であり、まるで自転車のスポークのように3つのシーンが「ホワイトクイーン」を形作っている。
インプロビゼーションのフォーマット(即興で舞台を作り上げるときの方法、スタイル)に、スポークン、というものが、確か、あった。スポークンとは違うが、そのフォーマットを想像させるなぁ、と思いながら観劇していた。
3つのシーンをそれぞれ展開して想像させて頭の中でつないでいく作業が必要なわけだが、なかなかこれが手間のかかる作業なわけで、それでもそれぞれがしっかりつくってあるので頭には入ってくる、それでもなお若干の違和感をかかえたのはなぜだろうか・・・。
●重ねるとは!!
3つのシーンを、最後に重ねてしまった。重ねてというか、タイムライン上で同時に流してしまった、というほうがわかりやすいかもしれない。同時進行ということである。3つのシーンのアンサンブルは、これはもう緻密なパズルだ。パズルのパーツには隙間があるわけで、ひとつずつのシーンでの微妙な歪みがその隙間だったのだろう。若干の違和感の正体が、この瞬間にわかった。
恐るべし。
2023年11月19日(日)11:00~ BLOCH 星くずロンリネス
短編演劇オムニバス公演 「くずテレビ」
【舞台全体の概要】
●フライヤーより
星くずロンリネス約5年半ぶりの単独公演!総勢20名の役者と作る初上演の短編演劇4作品!言葉遊びやギミック満載!テレビを見るように気軽に見ることができるポップでキャッチーな短編演劇4作品を一挙上演!短編演劇の合間には映像企画も上映するなどお客様を飽きさせないワクワクをお届け!
【作・演出】上田龍成、【照明】手嶋浩二朗、【音響】山口愛由美、【制作】寺田彩乃、野澤麻未、【イラスト】AyaNee、【デザイン】むらかみなお ・・・他多数
~ 短編演劇4作品をそれぞれ ~
「緑の神」
【フライヤーより】
年老いた芸人は妻から離婚届を突き付けられていた。理由は「面白くなくなったから」。20年以上前、お笑いの賞レースに出たことを思い出す。若い頃の自分は明るい未来を信じていた。星くずロンリネスがお届けする過去の自分のため、未来の自分のため、必死になるおじさん芸人の物語。
【出演】※役名/役者の順
野上/宮沢りえ蔵(大悪党スペシャル)、みどり/小林なるみ(劇団回帰線)、今日のノガミ/遠藤洋平(ヒュー妄)、松永/野沢麻未(ウェイビジョン)
【ギャグ監修】Yes!アキト 【楽曲協力】つれづれぐさ 【声の出演】やすと横沢さん、上田龍成
【雑感】
●巧みで匠な二人
年老いた芸人の野上とその妻、宮沢りえ蔵さんと小林なるみさんがそれぞれ演じた。その経歴を詳しく知るわけでも調べたわけでもないが、札幌の演劇シーンで長く活躍しているお二人だということはさすがに承知している。
短編演劇オムニバスは、短編だけに背景を丁寧に描く時間がなく、結末に向けて展開が早いのが一般的であろう。その短編において、役柄そのものに、年齢も性格も関係も窺うことができる安心の中に芝居が始まるのは、脚本にも役者にも「柱の明確さ」が必要だと思う。脚本は後述するとして、その空間を違和感なく提供できるこの二人の役者の実力の高さを、最初に挙げたい。
●若い(であろう)二人の役者の安定感
観劇はしばらくぶりだ。そして、何か食指が動く要素がないと劇場には足を運ばないという偏屈な自分。最近、というよりも、身近な役者以外は知らない。この回に登場する遠藤洋平さん、野澤麻未さんはもちろん初見。そうか、最近の若い皆さんはこうも安定しているのか・・・などとひとりごち。特に遠藤洋平さんの他の姿を観てみたいと思った。
●脚本と配役、演出の妙
素直にこの短編をみると、過去と現在の「ノガミ」が入れ替わることでハッピーエンドにつながるファンタジー、である。僕は素直じゃないせいか、そうは感じられなかった。僕には、現在の野上のリアルな回想シーンが過去のノガミたち、と感じられた。つまりノガミは、彼の脳内で展開された野上の過去の記憶なのではないだろうか。
この短編では、時間経過を経ていることを考慮しても同一人物とは思えない役者が演じる「ノガミ」同士が入れ替わる。20年以上前のお笑いショーレースの本番前に大事な荷物を誤配する原因となった女性が「すいません」や「申し訳ありません」ではなく「ごめんなさい」と口語的に謝る。その女性が今の野上の妻であることはほぼ登場から想像されたが過去と現在の同一人物である女性の年齢の重ね方が想像できない二人の役者。
なぜ、僕は野上の脳内だと言えたのだろう、野上の過去の記憶と感じたのだろう。
改めて舞台を思い浮かべてみた。野上の宮沢りえ蔵さんとノガミの遠藤洋平さんの近似する目、松永の野瀬麻未さんとみどりの小林なるみさんの脚本でも実際でも年齢=時間という距離感。キャラクターのテンション、舞台スペースの照明を含めた切り分け、アングルの変化、フォーカスの作り方。つまりは、カット割りがはっきりしていて切り替わる映像のような作りがそうさせているのではないだろうか。
脚本、配役、演出が作り出した映像的舞台作品だ。
そしてオムニバス最初のこの短編の観劇の真っ最中、作・演出の上田龍成さんが映像ディレクターであることを、僕は知らない。
「ワイルドシングな恋」
【フライヤーより】
父親の影響で昔から男らしい趣味が好きだった彩月。田舎町から上京し、過去を隠して真っ黒なジャケットを着て、カリスマシティーガールとして仕事に生きる。そんな中で一目見た瞬間、電流が走るような衝撃的で運命の出会いを果たした彼氏だったが・・・。何度も嘘をつく汗と涙のブチギレ劇場!
【出演】※役名/役者の順
大岩彩月/森舞子(ハッピーポコロンパーク)、サンダー江崎/Roman(ヒュー妄)、五島弘道/楽太郎、大岩正平/つだあきひこ(ウェイビジョン)、田鍋ゆう/尾崎史尭(23Hz/北海学園大学演劇研究会)
【楽曲制作】前田透(劇団・木製ボイジャー14号/ヒュー妄)
【雑感】
●大岩親子のハマリ具合とギャップ
ここは文句なしっ、て感じ?である。大岩正平の父らしさというか年齢そのものが出ているつだあきひこさん、大岩彩月のプロレス好きな娘としての森舞子さん、この二人の配役が、まずはよかったのだと思う。その一方で、「男勝りを仕込む父」と「娘の見合い相手を探す父」のギャップは、ワンカットとしてはいいが舞台としての納得感が僕には足りなかった。
●男勝りと男らしい趣味好きと乙女と
シティーガールとプロレス好きと恋する女性とを行き来する大岩彩月。飲んだ席で五島弘道にプロレス好きを告白していた事実が判明するシーン以降、男勝りとプロレスが混ざり合っていったように思えた。男勝りと男らしい趣味好きは、脚本では切り分けたものだったのか、そうではないのか。恋する女性の立ち位置での彩月にとって、プロレス好きを隠す必要はあったとしても男勝りを隠す必要はあったのか、乙女は必要だったのか、ギャップとして乙女を配置したかったのか、バレる化けの皮として乙女を配置したかったのか。
オムニバスならではの、展開の速さやカット割りのような作りをみると、決して必要だと思ってはいないが滑らかな構成を、ついつい探りたくなる。
●BLOCHの劇場としての特徴をいかに使うか
BLOCHは、札幌市内の劇場のなかでは特に横長で、奥行きが浅めの劇場である。このため、カミシモの行き来は客席の下に設けられた通路を使う。舞台奥のホリゾントまたは大黒の裏側にスペースはない。加えて、客席から舞台袖を覗くことができるほど舞台ハナと客席前列が近く、カミシモ両サイドの客席からは舞台全体を見渡すことができない。
そんな特徴の劇場で、舞台上にモニターを複数配置して奥のスペースをカットし、短編の各シーンをヨコの配置で切り分け、少人数の役者でシーンを構成しつつ、幕間では映像作品をモニターで放映して「番組」化したのが、「くずテレビ」のテレビたる所以なのだろう。
「ワイルドシンクな恋」では、そこに役者によるタテの配置を入れることで奥行きを見せていた。さらに照明の明暗での舞台の切り分けを行いつつ「暗」側で役者を黒子としての活用し、舞台上のメンバーを限定することでせわしなさや雑多な印象を軽減していた。
基本的なBLOCHでの舞台構成は、劇団によって大きく変わらないとは思う。この後の短編で思い知ることになるのだが、星くずロンリネス、いや、たぶん上田龍成さんはこの劇場の使い方が抜群にうまいのではないだろうか。
なお、他の劇団との構成の比較をしっかりと行った結果ではない。あくまで印象、である。
あ、そういえば、BLOCHの前身ともいえるUNOも舞台は浅めだった。
※BLOCHの前身といえば「マリアテアトロ」だと思うが、僕にとってはマリア階下の「UNO」も含まれる。
●役者へのフォーカス、シーンやカットの切り取り方
「ワイルド・・・」で少々気になるシーンがあった。ストップモーションでの尾崎史尭さんの表情である。尾崎さん演じる「田鍋ゆう」の笑顔が、あいまいだった。あの笑顔が明快であれば、もっとシーンに起伏が出てきたのではないだろうか。彼の「女がプロレスなんて」というシーンの表情は、ストップモーションであろうがなかろうがまさにその顔!であった。舞台もシーンも、役者へのフォーカスで奥行きを深くも浅くも見せることができる、と改めて感じた。
ダークな面を含ませた表情の出来る尾崎さんはこれからが楽しみな役者である。あの顔は普段からやってるんじゃないか。隠してる「黒い尾崎」が出てるんじゃないか、などとついつい考えてしまう。とまあ、それはともかく、彼の明快な笑顔を観てみたい。それが、きっと本人と芝居と舞台上の奥行きを出してくれるに違いない・・・いや、実はもう持っていて、今回は見せていないだけかもしれないが。
・・・と、書き進めたところでふと思った。・・・笑顔のカットの棒立ち感・・・それか?・・・確かに「女がプロレスなんて」では、表情もさることながら役者から感情が噴き出していた。シーンやカットの切り取りが映像的と考えた場合、笑顔のカットは顔なのか、バストアップなのか、全身なのか。演出面で考えてもみたい部分である。
「長い一日」
【フライヤーより】
旦那が誘拐された妻は取り乱していた。付き添う妹と警察官。誘拐犯からの着信。警察からは逆探知するため、1分1秒でも時間を稼ぎ、通話をしてほしいと伝えられる。そこから彼女の長い長い一日が始まる。
星くずロンリネスが送る70年代誘拐サスペンスコメディ。
【出演】※役名/役者の順
姉/きゃめ(ハッピーポコロンパーク/劇団coyote)、妹/山木眞綾、刑事/大谷岱右(DACT)、誘拐犯/丹生尋基
【雑感】
●まきこだ~ポアロだ~
姉妹の口調が田中真紀子。そうきたか。刑事がポアロ?!そうか、70年代か、吹替か。
演出によるものかどうかはわからないが、やりやがったな、きゃめと大谷だいちゃん(率直な感想)。
●間、テンポ、動作の妙
きゃめとだいちゃんは知っていると言えば知っているが、よく知っているわけではない。その感じでの話だが、二人の舞台上での関係はリズム感のよいものだったし、僕にとっては安心感のある二人だった。そこに妹の山木さん、誘拐犯の丹生さんが入り、電話の音、驚きの表情と動作、慌てふためく光景といら立ちの加減、短編全体のテンポ、脚本の明快な構成が「技」として舞台空間をひとつにしていた。それは、電話をとる指先の表情(顔ではない、指先である)ひとつとっても、キャラクターとしてそこに佇むことができているからなのだろう。
これはね、この方々のための舞台だ。
●短編らしい短編、コメディらしいコメディ、そこから夢想するもの
構成は明快だ。キャラクターは明快だ。まさに短編でありコメディだ。それだけだ。それだけだからこそいい。だからキャラクターが残る。キャラクターしか残らない。
キャストをみてみる。誘拐犯はこの短編に必要な材料である。エッセンスではあってもスパイスとはなっていない脚本である。ほかのキャストはキャラクターとして存在した。その際、姉と妹のキャラクターが重なり、強弱で言えば姉が強く、妹が弱い。妹の存在感が舞台上で薄いわけでもなく弱いわけでもない。ちゃんと、いる。ただ、姉のキャラクターが強いのだ。それが悪目立ちするわけでもない。キャラクターとしては、姉>刑事>妹>誘拐犯、のバランスが今回のキャラクターと役者の配置の妙、であろう。
役者にとって舞台上のキャラクターとはなんだろう。役者も楽しんでいるし、それはそれでよさそうだ。他方、キャラクターが役者そのもののイメージとなり、役者そのものを示すアイコンになる懸念は持っておく必要はなかろうか。その役者がやりたいこととして様々なキャラクターがあって、それを様々な場面で演じる機会を得られるのは、幸せなことだ。そう思う一方で、ともすれば傾向として「強い」イメージのキャラクターにのみ配役されることになりはしないか、とも思う。
コメディに生きる役者、キャラクターの強い役者としてはきゃめもだいちゃんも絶品だ。
果たして、そうではないシーンに登場する彼らを僕は目にすることができるのだろうか、いや、観たいと思っているのだろうか。もしかしてそういう配役であったこともあるのかもしれないし、ただ僕が知らないだけなのだろう、僕には想像ができないだけなのだろう、とも思う。
故に、頭から指先、つま先まで神経の届く役者たちのこれからを、観ていきたい。
「白衣の女王」
【フライヤーより】
人気医療漫画「ホワイトクイーン」にまつわる3つの話。漫画の作者はバッドエンドしか描けなくなり、ファンの男は彼女から浮気を疑われ、漫画のモデルとなった外科医はミスをキッカケにオペが出来なくなっていた・・・。
「先生、僕の妻を助けて下さい!」
白衣の女王はハッピーエンドを生み出せるのか?
【出演】※役名/役者の順
白井/阿部星来(劇団パーソンズ)、近江/岡田健太郎、増井/塚本奈緒美、長田/小林エレキ、奥塚/野村大、大島/山田プーチン、猪俣/小西麻里菜
【楽曲制作】ぬいほたる
【雑感】
●ちょっとだけ話を整理してみる
人気漫画ホワイトクイーンの作者は奥塚先生、掲載誌の編集長は長田で担当編集者は増井、その漫画のファンはストッキングをかぶった大島で、大島と猪俣はつき合っている、ホワイトクイーンのモデルは白井先生で、白井先生に研修医時代にお世話になったのは近江。
シーン1
ストッキングをかぶった大島は、ホワイトクイーンの大ファンでハワイとクイーンになりたかったあまりコスプレするためにストッキングをかぶった。かぶったところに出くわした大島の恋人・猪俣は、ストッキングは誰の?何をしてるの?なに?もしかしてほかの女?浮気?そう、浮気なのね?!と激しく疑う。コスプレ?なぜ?ストッキング?!・・・疑いは晴れるのか、ストッキング大島?!
シーン2
「ホワイトクイーン」の作者・奥塚はスランプに陥っていた・・・もうバッドエンドしか書けない・・・漫画のモデル・白井先生のバッドな状況を取材してしまったから(か?)。ハッピーエンドを書こうとすると絵面が子供の絵になってしまう。奥塚の、ホワイトクイーンのファンでもある担当編集者・増井は「奥塚先生、ファンが待っています!」と奥塚を励ます。編集長の増井は、掲載誌の廃刊の危機に奥塚を励ますが、ハッピーエンドの絵面のひどさに、バッドエンドのバッドなエンドに、「もう廃刊だ~」と悶え苦しむ。書け!描け!ハッピーを描くんだ奥塚!
シーン3
白井先生、助けて下さい。僕、そう僕は近江です、研修医として白井先生にお世話になった近江です。妻が瀕死の重傷なんです!オペしてください!救急車よりも早く、救急車に妻を置いて突っ走ってこの診療所まで来ました!え?どうやって?走って!え?車より早く走れるのかって?そんなことはどうだっていい!本番ではそこまでふれてないじゃないか!ここでそんな話をせずに早く手術を!!え?ミスを引きずってメスは持てない?ミスでメスをメスがミスで?!いやだ・・・いやだ!助けて!助けて!ねえ、助けてヒーローっ!
※記載内容の一部に書きぶり上の脚色がありますが、ご容赦ください。
●ようやく雑感だ・・・人気漫画「ホワイトクイーン」を形作る3つのシーン
シーンは上記1から3の順に展開される。3つのシーンは医師の白井先生と漫画家の奥塚先生の両先生が取材という機会を通してつながっている背景がある以外、シーンを越えてキャストが直接つながっていない。軸は「ホワイトクイーン」という漫画であり、まるで自転車のスポークのように3つのシーンが「ホワイトクイーン」を形作っている。
インプロビゼーションのフォーマット(即興で舞台を作り上げるときの方法、スタイル)に、スポークン、というものが、確か、あった。スポークンとは違うが、そのフォーマットを想像させるなぁ、と思いながら観劇していた。
3つのシーンをそれぞれ展開して想像させて頭の中でつないでいく作業が必要なわけだが、なかなかこれが手間のかかる作業なわけで、それでもそれぞれがしっかりつくってあるので頭には入ってくる、それでもなお若干の違和感をかかえたのはなぜだろうか・・・。
●重ねるとは!!
3つのシーンを、最後に重ねてしまった。重ねてというか、タイムライン上で同時に流してしまった、というほうがわかりやすいかもしれない。同時進行ということである。3つのシーンのアンサンブルは、これはもう緻密なパズルだ。パズルのパーツには隙間があるわけで、ひとつずつのシーンでの微妙な歪みがその隙間だったのだろう。若干の違和感の正体が、この瞬間にわかった。
恐るべし。
アップダウン 二人芝居 音楽劇 「桜の下で君と」 ― 2023/12/18
雑感を少しずつ書き進めてますが、なかなか筆が進まない(笑)
2023年11月11日(土)14:00~ コンカリーニョ アップダウン 二人芝居
音楽劇 「桜の下で君と」
【舞台の概要】
●フライヤーより
お笑いコンビ、アップダウンは、劇場で「桜」をテーマにネタを披露。本番を終え楽屋に戻るが、竹森は「自分たちも40代になり、ただ笑わせるだけじゃなく、笑いを使って大事なことを伝えていけるものを作りたい」と、『特攻隊』を題材にしようと提案。
阿部は「命を捨てて戦った人たちのことを笑いになどできない」と反対するが、竹森の説得により【特攻隊をテーマに音楽劇を作る】ことを決める。
2人がきになったのは、第四十五振武隊長として昭和20年5月28日、二人乗り戦闘機で特攻した関根一郎という人物。
「なぜ二人で突撃したのか?」竹森は阿部と調べを進めていく。
昭和17年、関根一郎が教官を務める熊谷軍飛行学校に14歳の久保玄七が入学。甘えん坊で子供っぽい玄七を関根は弟のように思い、師弟の絆は深まっていく。
昭和19年、本土決戦阻止へ特攻開始。関根も志願するが、左手麻痺と妻子を理由に軍が拒否。それを知った関根の妻子は子を道連れに自殺。ついに軍は関根の特攻隊入りを認める。
昭和20年、鹿児島の知覧基地で関根と玄七は再会。二人乗り戦闘機で飛び立ち、米駆逐艦ドレクスラーに体当たりを敢行。
お笑い芸人として、人生をかけ特攻に散っていった若者たちの生きざまを「笑い」と「歌」で今を生きる若者に伝える、ドキュメンタリー音楽劇。
【出演】
アップダウン 竹森巧、阿部浩貴
二人芝居 関根 一郎/竹森巧、久保 玄七/阿部浩貴
※脚本等の記述なし
●記憶からホンを辿る
漫才から始まる音楽劇。
こうして平和に暮らしている現代、過去には何があったのか。
先人が命を散らして守った日本。
「靖国で会おう」
桜咲く、桜散る靖国へ祭られる多くの先人は、命そのものを懸けて散った特攻隊は、何を思い、どう過ごし、どう死と向き合い、残す人々に想いを馳せ、どう死んでいったのか。
私たちは、歴史を辛く、悲しいとだけ感じることでよいのか。
【雑感】
●「お笑い」の優位性、劣位性
漫才から始まる舞台は、舞台に引き込むうえで優位と思われる。一方、今回のテーマがシリアスなものだけに、漫才からその後の展開にいかにつなげるのかが課題になったであろう。今回の舞台の一体感、オープニングからラストまでの連続性が担保されなければ、展開に違和感を持つことになる。今回は、特攻隊という対象を取り上げるきっかけ、二人が取り組む決意の展開が最大のハードルとなる。
桜、知覧、靖国、大事なこと、伝えたいこと、お笑いだからこそできること。場に出したキーワードを拾い上げて特攻に近づけていったが、知覧の持ち出し方に唐突感を持った。そして「よし、やろう」にたどり着く過程を観る側にとって納得しやすいものにできる余地を感じた。もしかしたらアップダウンを知る人にとっては、納得できる展開だったのかもしれないが。
個人的な好みになるのかもしれないが、竹森の説得に阿部がいやいやながらも応じていき、徐々にのめりこむ展開、という選択肢があってもよかったと思う。そうなっていた、と感じる向きもあるが、多少の滑らかさを求める自分がいた、ということだろう。
ふと思ったが、特攻につなげる展開そのものが、お笑いのネタ的な展開だったのかもしれない。芝居として捉える場合、その要素は劣位、と感じる。今回の舞台は音楽劇として、エンターテイメントとして捉えるほうがよいだろう。僕の芝居に対するイメージが狭いのかもしれない、とも思った今回の舞台であった。
●芸人の、俳優としてのスキル
つくづく感じるが、お笑い芸人の皆さんの俳優としてのスキルの高さは、今回の舞台でもやはり感じた。数多くのネタ、数多くの舞台の中で培ってきたのだろうし、ネタ作りにしろ舞台づくりにしろ、観察と把握の能力が特に求められるのであろう。そこに表現したいものを表現するための努力は、相当なものなのだろうと強く強く感じた。本人の年齢と設定の年齢に相当の差があるにもかかわらず、そう見えるのはそう見せるのには、脱帽である。
●特攻をどう捉えるか、にこだわらない
教え子を戦線に送り、戦死していく様に自責の念に駆られる、特攻志願も妻子を理由に軍は受け入れない、その妻子も思いとどまるよう懇願する、しかし本人は教え子への思いから特攻を志願し続ける。そのすえ、妻子は入水自殺する。遺書には「後顧の憂いになるので、お先に行って待っています」の文字。
当時の、そしてモデルとなった方々の思いを知る由もない。妻の思いを想像するに、夫を想い、その遺志に殉じたというものだけではないのであろう。
特攻という戦術に対する、現代を生きる私たちの考えは今後の選択肢としては否定的ではあるものの、過去の史実に対する考えとしてはそれぞれであろうと思う。そのうえで、英霊という言葉には戦争で亡くなった方々に対する鎮魂のほかに、過去の戦争を肯定的に捉えるイメージも感じる。また、その死の上に今がある、という言葉にも、似たようなイメージを僕個人としては感じる。
戦争で数多くの人々が、日本国民だけではない数多くの人々が亡くなった事実を遠い過去のものとしない努力、それが今回の舞台のテーマであろう。そう考えると、それぞれが持つ言葉のイメージに対して、どのような表現を言葉を展開を構成を、選択することが必要なのかがとても悩ましい。
●客席に向けた転がし(照明)がツライ
客席に座っていて、光が目に飛び込んでくる照明は、やはり嫌いだ。
漫才の冒頭の照明であり、ステージでの照明としての使い方であることは理解している、が、目つぶし的な照明は、嫌なのである。きわめて個人的なもの、ではある。
2023年11月11日(土)14:00~ コンカリーニョ アップダウン 二人芝居
音楽劇 「桜の下で君と」
【舞台の概要】
●フライヤーより
お笑いコンビ、アップダウンは、劇場で「桜」をテーマにネタを披露。本番を終え楽屋に戻るが、竹森は「自分たちも40代になり、ただ笑わせるだけじゃなく、笑いを使って大事なことを伝えていけるものを作りたい」と、『特攻隊』を題材にしようと提案。
阿部は「命を捨てて戦った人たちのことを笑いになどできない」と反対するが、竹森の説得により【特攻隊をテーマに音楽劇を作る】ことを決める。
2人がきになったのは、第四十五振武隊長として昭和20年5月28日、二人乗り戦闘機で特攻した関根一郎という人物。
「なぜ二人で突撃したのか?」竹森は阿部と調べを進めていく。
昭和17年、関根一郎が教官を務める熊谷軍飛行学校に14歳の久保玄七が入学。甘えん坊で子供っぽい玄七を関根は弟のように思い、師弟の絆は深まっていく。
昭和19年、本土決戦阻止へ特攻開始。関根も志願するが、左手麻痺と妻子を理由に軍が拒否。それを知った関根の妻子は子を道連れに自殺。ついに軍は関根の特攻隊入りを認める。
昭和20年、鹿児島の知覧基地で関根と玄七は再会。二人乗り戦闘機で飛び立ち、米駆逐艦ドレクスラーに体当たりを敢行。
お笑い芸人として、人生をかけ特攻に散っていった若者たちの生きざまを「笑い」と「歌」で今を生きる若者に伝える、ドキュメンタリー音楽劇。
【出演】
アップダウン 竹森巧、阿部浩貴
二人芝居 関根 一郎/竹森巧、久保 玄七/阿部浩貴
※脚本等の記述なし
●記憶からホンを辿る
漫才から始まる音楽劇。
こうして平和に暮らしている現代、過去には何があったのか。
先人が命を散らして守った日本。
「靖国で会おう」
桜咲く、桜散る靖国へ祭られる多くの先人は、命そのものを懸けて散った特攻隊は、何を思い、どう過ごし、どう死と向き合い、残す人々に想いを馳せ、どう死んでいったのか。
私たちは、歴史を辛く、悲しいとだけ感じることでよいのか。
【雑感】
●「お笑い」の優位性、劣位性
漫才から始まる舞台は、舞台に引き込むうえで優位と思われる。一方、今回のテーマがシリアスなものだけに、漫才からその後の展開にいかにつなげるのかが課題になったであろう。今回の舞台の一体感、オープニングからラストまでの連続性が担保されなければ、展開に違和感を持つことになる。今回は、特攻隊という対象を取り上げるきっかけ、二人が取り組む決意の展開が最大のハードルとなる。
桜、知覧、靖国、大事なこと、伝えたいこと、お笑いだからこそできること。場に出したキーワードを拾い上げて特攻に近づけていったが、知覧の持ち出し方に唐突感を持った。そして「よし、やろう」にたどり着く過程を観る側にとって納得しやすいものにできる余地を感じた。もしかしたらアップダウンを知る人にとっては、納得できる展開だったのかもしれないが。
個人的な好みになるのかもしれないが、竹森の説得に阿部がいやいやながらも応じていき、徐々にのめりこむ展開、という選択肢があってもよかったと思う。そうなっていた、と感じる向きもあるが、多少の滑らかさを求める自分がいた、ということだろう。
ふと思ったが、特攻につなげる展開そのものが、お笑いのネタ的な展開だったのかもしれない。芝居として捉える場合、その要素は劣位、と感じる。今回の舞台は音楽劇として、エンターテイメントとして捉えるほうがよいだろう。僕の芝居に対するイメージが狭いのかもしれない、とも思った今回の舞台であった。
●芸人の、俳優としてのスキル
つくづく感じるが、お笑い芸人の皆さんの俳優としてのスキルの高さは、今回の舞台でもやはり感じた。数多くのネタ、数多くの舞台の中で培ってきたのだろうし、ネタ作りにしろ舞台づくりにしろ、観察と把握の能力が特に求められるのであろう。そこに表現したいものを表現するための努力は、相当なものなのだろうと強く強く感じた。本人の年齢と設定の年齢に相当の差があるにもかかわらず、そう見えるのはそう見せるのには、脱帽である。
●特攻をどう捉えるか、にこだわらない
教え子を戦線に送り、戦死していく様に自責の念に駆られる、特攻志願も妻子を理由に軍は受け入れない、その妻子も思いとどまるよう懇願する、しかし本人は教え子への思いから特攻を志願し続ける。そのすえ、妻子は入水自殺する。遺書には「後顧の憂いになるので、お先に行って待っています」の文字。
当時の、そしてモデルとなった方々の思いを知る由もない。妻の思いを想像するに、夫を想い、その遺志に殉じたというものだけではないのであろう。
特攻という戦術に対する、現代を生きる私たちの考えは今後の選択肢としては否定的ではあるものの、過去の史実に対する考えとしてはそれぞれであろうと思う。そのうえで、英霊という言葉には戦争で亡くなった方々に対する鎮魂のほかに、過去の戦争を肯定的に捉えるイメージも感じる。また、その死の上に今がある、という言葉にも、似たようなイメージを僕個人としては感じる。
戦争で数多くの人々が、日本国民だけではない数多くの人々が亡くなった事実を遠い過去のものとしない努力、それが今回の舞台のテーマであろう。そう考えると、それぞれが持つ言葉のイメージに対して、どのような表現を言葉を展開を構成を、選択することが必要なのかがとても悩ましい。
●客席に向けた転がし(照明)がツライ
客席に座っていて、光が目に飛び込んでくる照明は、やはり嫌いだ。
漫才の冒頭の照明であり、ステージでの照明としての使い方であることは理解している、が、目つぶし的な照明は、嫌なのである。きわめて個人的なもの、ではある。
演劇家族スイートホーム第7回公演「いつか、いつだよ」 ― 2023/12/15
こんなにもじっくりと連日にわたり観劇するのはなかなかない!
ということで、TGR2作品目は、こちらです。
2023年11月4日(土)12:00~ シアターZOO 演劇家族スイートホーム
第7回公演 「いつか、いつだよ」
【舞台の概要】
●フライヤーより
「もし戻れるなら、高校の頃ですかね」なにしたい?「青春がしたい!・・・ま、そんなこと出来ないけどね。」と、言いますと?「現実的に、無理でしょ?」それが、出来ちゃうんだなあ。青春は再現可能なのか?青春は誰が定義するの?青春って、甘酸っぱくて、自由で、そして、果てしなく遠いのかもしれない。私にとっては。
【出演】※役名(よみ)/役者の順
巻 真希(まき まき)/竹道光希、坂本(さかもと)/本庄一登、金本 加奈子(かなもと かなこ)/古谷華子、吉田 頼(よしだ より)/松尾佳乃子、春野 ハルキ(はるの はるき)/目黒紅亜(ウェイビジョン)、八木 公平(やぎ こうへい)/高橋雲(ヒュー妄)、青井 葵(あおい あおい)/湯本空、二宮 七菜香(にのみや ななか)/服部一姫(札幌表現舎)、多田 忠(ただ ただし)/菊池健汰
【脚本・演出】高橋正子 【照明】手嶋浩二郎(夕凪) 【音響】渥美光(劇団うみねこ) 【舞台美術】岩崎陸來 【宣伝美術】河合華穂 【制作】湯本空、山田雄基 【スタッフ】山崎拓未、五島基愉
●記憶からホンを辿る
・・・猫をかばって死にかけました、そう、死んではいません。そんなあなた、輝いていた高校の頃に戻りませんか?人生、やり直しませんか?ほんの少し寿命をいただきますが・・・
“死神”坂本の半ば強引な誘いに乗ってしまった真希30歳手前?、坂本が過去の隙間を見つけて戻された高校生活とは、なんとコロナの試練真っ只中の放送部!活動休止中にもかかわらず坂本が与えてきたミッションは「みんなで放送の作品を作ること」。生徒会に目を付けられ、放送部の顧問は自分が過ごした高校時代に公開告白をしてきた八木?!
違う時代の高校生活をどう生きる?放送部のみんなで作品作りは?生徒会の目を盗め!働け、八木!
【雑感】
●坂本のサイズがでかい、動きがでかい、声もでかい
いや、貶しているわけではない。ただ事実を述べているだけである。
舞台上での死神=坂本は、時空を超えた状態を示す必要があり、演出としてこのような置き方をしたのだと思う。その意味では、成り立っているとは思う。ただし、坂本の性質上、動きの大きさは時空を乱す、というか、舞台上のフォーカスをどんどん動かしてしまうので、観る側にとってはもう少し落ち着いたほうが見やすいと感じた。また、坂本は基本的に「静」で場を支配し、真希の思わぬ反応に対して派手すぎない「動」で動揺などを表す方法もあったのではないか、と思う。
●部室のドア
役者も演出も舞台美術も、ここは悩んだと思う。部室のウチソトの別が必要だが、舞台空間をしっかり使うためには建て込めない。ドアの開け閉めで空間を仕切ろうとの努力がマイムにも表れているが、芝居をしながらの出入りの連続は、相当な訓練に拠らなければ精密な体の動きを妨げる。かといって、引き戸ではないし・・・見逃しや見落としではないのもわかるが、ドアの開閉は何らかの工夫が必要だったかもしれない。
例えば、恐る恐るのシーンはゆっくり精緻にドアノブを回すがそれ以外はドアノブを回さない、駆け込むところはドアノブすら握らずにドアを跳ね開ける、といった変化のつけ方もありではなかろうか。マイムを見せるための舞台ではなく、ストーリーと感情にフォーカスした演出だったので、それもありかと。
●時代背景の戸惑い
高校生に戻る、と聞くと、高校生をやり直す、と受け取る場合が多いと考える、このため、真希は本人が過ごした高校時代に戻っていくのだろう、と最初の場面で受け取った。ところが、「隙間を見つけるのに苦労しました」(確か坂本にこんなセリフがあった)という時点で、最初の僕の解釈との違いに気づき、シーンは前後しているかもしれないがマスクをしている状況に時期の混乱を生じ、コロナの流行が始まったころに敢えてなぜ戻ったのかに疑問を持ち、とりあえずそこは置いといて、ってな感じになるのに少し時間を要した。
ここは少し、坂本にいつの時代の高校生活に、なぜ戻ったのか、を付言してもらうほうがよかったように感じた。僕が頭の中でぐるぐる考えている間にそのセリフがあったとしたら、ちょっとだけ観客が戸惑わない、もしくは戸惑いの少ない展開のほうが、僕の好み、ではある。
●高校生の、湿度。
部活動のあらゆる大会は中止となり、放送部のNコンも例外ではなかった時期。引退する3年生の無理やりな割り切り、後輩たちの自らの力ではどうにもならない中での先輩に対する無償の思いやり、高校生らしい世界がしっかりと表現されていた。コロナで大会が中止や延期になったりした時期、様々な様子がテレビで報道、特集されていたが、そこに湿度は感じらず、涙はあってもドライなシーンばかりだったことを思い出した。高校生は、もっと高い湿度の中にいたような気がする。僕自身は高校の放送局でアナウンスを経験し、前回の北海道開催のインターハイのアナウンス選抜で苦杯をなめた。そのころは、なにかあればもっと霧がかかるような湿度の中での生活だった。僕自身はその湿度が煩わしくて、高校生っぽい湿度の中から抜け出そうとしていた。
そんなことをも思い出させる、高校生の湿度をリアルに表現していた舞台だったと思う。
●青井の軽さ、二宮の責任感、加奈子の粘度、八木のだるさ、そしてコントラスト
青井の軽さは舞台を明るくし、二宮の責任感は時代を映し、加奈子の粘度は高校生の湿度を体現し、八木のだるさは舞台をまあるくしていた。これは詳しく説明するものではない、舞台を共有した皆さんなら、感じてもらえる表現ではないか、と思い記している。特に青井のドライと金本のウェットのコントラストは、とても鮮やかだった。コントラストという点では、真希と二宮もコロナと時代をめぐるコントラストを表現していた。
感じ方は違えどそれぞれの高校生活とコロナを過ごしてきた人々にとっては、この二つのコントラストが何かを感じるポイントになると思う。
●コロナ禍の高校生へのレクイエムか、大人と政治への皮肉か
劇中で、高校生に戻った真希はほとんどマスクをしていなかった。高校生たちや八木はマスク着用を基本にしていた。部活動の無許可での再開に高2の頼(より)は反発し、高3の加奈子はあきらめ、高1のハルキはあきらめなかった。マスク、お菓子、消毒、密室などが舞台上にばらまかれ、真希がかき回し、二宮が秩序を、青井が波紋を、八木が無気力な大人を、多田が客観を、それぞれ担い、そこからいくつかのイメージが浮かび上がっていた。
公開が約束されない野球部へのインタビューをめぐるストーリーは、コロナで高校生活の1ページを変えられてしまったことへのレクイエムだ。この経験が将来生きるという八木、ルールを守って1日も早い再会を願う二宮、いつだよと叫ぶハルキはコロナによって大人と政治がもたらした状況へのアンチテーゼであり、真希の存在そのものが皮肉に満ちている。
ホンや演出に丁寧さを求めたい気持ちはある。ただ、それを求めるとこの舞台が内包する荒々しさが損なわれ、レクイエムが葬送に、皮肉が痛烈な批判になりかねない。つまり、別作品となってしまう恐れがある。
この作品は、このキャストと舞台と演出で、作品として実にしっかり成立しているのだ。
ということで、TGR2作品目は、こちらです。
2023年11月4日(土)12:00~ シアターZOO 演劇家族スイートホーム
第7回公演 「いつか、いつだよ」
【舞台の概要】
●フライヤーより
「もし戻れるなら、高校の頃ですかね」なにしたい?「青春がしたい!・・・ま、そんなこと出来ないけどね。」と、言いますと?「現実的に、無理でしょ?」それが、出来ちゃうんだなあ。青春は再現可能なのか?青春は誰が定義するの?青春って、甘酸っぱくて、自由で、そして、果てしなく遠いのかもしれない。私にとっては。
【出演】※役名(よみ)/役者の順
巻 真希(まき まき)/竹道光希、坂本(さかもと)/本庄一登、金本 加奈子(かなもと かなこ)/古谷華子、吉田 頼(よしだ より)/松尾佳乃子、春野 ハルキ(はるの はるき)/目黒紅亜(ウェイビジョン)、八木 公平(やぎ こうへい)/高橋雲(ヒュー妄)、青井 葵(あおい あおい)/湯本空、二宮 七菜香(にのみや ななか)/服部一姫(札幌表現舎)、多田 忠(ただ ただし)/菊池健汰
【脚本・演出】高橋正子 【照明】手嶋浩二郎(夕凪) 【音響】渥美光(劇団うみねこ) 【舞台美術】岩崎陸來 【宣伝美術】河合華穂 【制作】湯本空、山田雄基 【スタッフ】山崎拓未、五島基愉
●記憶からホンを辿る
・・・猫をかばって死にかけました、そう、死んではいません。そんなあなた、輝いていた高校の頃に戻りませんか?人生、やり直しませんか?ほんの少し寿命をいただきますが・・・
“死神”坂本の半ば強引な誘いに乗ってしまった真希30歳手前?、坂本が過去の隙間を見つけて戻された高校生活とは、なんとコロナの試練真っ只中の放送部!活動休止中にもかかわらず坂本が与えてきたミッションは「みんなで放送の作品を作ること」。生徒会に目を付けられ、放送部の顧問は自分が過ごした高校時代に公開告白をしてきた八木?!
違う時代の高校生活をどう生きる?放送部のみんなで作品作りは?生徒会の目を盗め!働け、八木!
【雑感】
●坂本のサイズがでかい、動きがでかい、声もでかい
いや、貶しているわけではない。ただ事実を述べているだけである。
舞台上での死神=坂本は、時空を超えた状態を示す必要があり、演出としてこのような置き方をしたのだと思う。その意味では、成り立っているとは思う。ただし、坂本の性質上、動きの大きさは時空を乱す、というか、舞台上のフォーカスをどんどん動かしてしまうので、観る側にとってはもう少し落ち着いたほうが見やすいと感じた。また、坂本は基本的に「静」で場を支配し、真希の思わぬ反応に対して派手すぎない「動」で動揺などを表す方法もあったのではないか、と思う。
●部室のドア
役者も演出も舞台美術も、ここは悩んだと思う。部室のウチソトの別が必要だが、舞台空間をしっかり使うためには建て込めない。ドアの開け閉めで空間を仕切ろうとの努力がマイムにも表れているが、芝居をしながらの出入りの連続は、相当な訓練に拠らなければ精密な体の動きを妨げる。かといって、引き戸ではないし・・・見逃しや見落としではないのもわかるが、ドアの開閉は何らかの工夫が必要だったかもしれない。
例えば、恐る恐るのシーンはゆっくり精緻にドアノブを回すがそれ以外はドアノブを回さない、駆け込むところはドアノブすら握らずにドアを跳ね開ける、といった変化のつけ方もありではなかろうか。マイムを見せるための舞台ではなく、ストーリーと感情にフォーカスした演出だったので、それもありかと。
●時代背景の戸惑い
高校生に戻る、と聞くと、高校生をやり直す、と受け取る場合が多いと考える、このため、真希は本人が過ごした高校時代に戻っていくのだろう、と最初の場面で受け取った。ところが、「隙間を見つけるのに苦労しました」(確か坂本にこんなセリフがあった)という時点で、最初の僕の解釈との違いに気づき、シーンは前後しているかもしれないがマスクをしている状況に時期の混乱を生じ、コロナの流行が始まったころに敢えてなぜ戻ったのかに疑問を持ち、とりあえずそこは置いといて、ってな感じになるのに少し時間を要した。
ここは少し、坂本にいつの時代の高校生活に、なぜ戻ったのか、を付言してもらうほうがよかったように感じた。僕が頭の中でぐるぐる考えている間にそのセリフがあったとしたら、ちょっとだけ観客が戸惑わない、もしくは戸惑いの少ない展開のほうが、僕の好み、ではある。
●高校生の、湿度。
部活動のあらゆる大会は中止となり、放送部のNコンも例外ではなかった時期。引退する3年生の無理やりな割り切り、後輩たちの自らの力ではどうにもならない中での先輩に対する無償の思いやり、高校生らしい世界がしっかりと表現されていた。コロナで大会が中止や延期になったりした時期、様々な様子がテレビで報道、特集されていたが、そこに湿度は感じらず、涙はあってもドライなシーンばかりだったことを思い出した。高校生は、もっと高い湿度の中にいたような気がする。僕自身は高校の放送局でアナウンスを経験し、前回の北海道開催のインターハイのアナウンス選抜で苦杯をなめた。そのころは、なにかあればもっと霧がかかるような湿度の中での生活だった。僕自身はその湿度が煩わしくて、高校生っぽい湿度の中から抜け出そうとしていた。
そんなことをも思い出させる、高校生の湿度をリアルに表現していた舞台だったと思う。
●青井の軽さ、二宮の責任感、加奈子の粘度、八木のだるさ、そしてコントラスト
青井の軽さは舞台を明るくし、二宮の責任感は時代を映し、加奈子の粘度は高校生の湿度を体現し、八木のだるさは舞台をまあるくしていた。これは詳しく説明するものではない、舞台を共有した皆さんなら、感じてもらえる表現ではないか、と思い記している。特に青井のドライと金本のウェットのコントラストは、とても鮮やかだった。コントラストという点では、真希と二宮もコロナと時代をめぐるコントラストを表現していた。
感じ方は違えどそれぞれの高校生活とコロナを過ごしてきた人々にとっては、この二つのコントラストが何かを感じるポイントになると思う。
●コロナ禍の高校生へのレクイエムか、大人と政治への皮肉か
劇中で、高校生に戻った真希はほとんどマスクをしていなかった。高校生たちや八木はマスク着用を基本にしていた。部活動の無許可での再開に高2の頼(より)は反発し、高3の加奈子はあきらめ、高1のハルキはあきらめなかった。マスク、お菓子、消毒、密室などが舞台上にばらまかれ、真希がかき回し、二宮が秩序を、青井が波紋を、八木が無気力な大人を、多田が客観を、それぞれ担い、そこからいくつかのイメージが浮かび上がっていた。
公開が約束されない野球部へのインタビューをめぐるストーリーは、コロナで高校生活の1ページを変えられてしまったことへのレクイエムだ。この経験が将来生きるという八木、ルールを守って1日も早い再会を願う二宮、いつだよと叫ぶハルキはコロナによって大人と政治がもたらした状況へのアンチテーゼであり、真希の存在そのものが皮肉に満ちている。
ホンや演出に丁寧さを求めたい気持ちはある。ただ、それを求めるとこの舞台が内包する荒々しさが損なわれ、レクイエムが葬送に、皮肉が痛烈な批判になりかねない。つまり、別作品となってしまう恐れがある。
この作品は、このキャストと舞台と演出で、作品として実にしっかり成立しているのだ。
最近のコメント