演劇家族スイートホーム第7回公演「いつか、いつだよ」2023/12/15

こんなにもじっくりと連日にわたり観劇するのはなかなかない!
ということで、TGR2作品目は、こちらです。


2023年11月4日(土)12:00~ シアターZOO 演劇家族スイートホーム
第7回公演 「いつか、いつだよ」

【舞台の概要】

●フライヤーより

「もし戻れるなら、高校の頃ですかね」なにしたい?「青春がしたい!・・・ま、そんなこと出来ないけどね。」と、言いますと?「現実的に、無理でしょ?」それが、出来ちゃうんだなあ。青春は再現可能なのか?青春は誰が定義するの?青春って、甘酸っぱくて、自由で、そして、果てしなく遠いのかもしれない。私にとっては。

【出演】※役名(よみ)/役者の順
巻 真希(まき まき)/竹道光希、坂本(さかもと)/本庄一登、金本 加奈子(かなもと かなこ)/古谷華子、吉田 頼(よしだ より)/松尾佳乃子、春野 ハルキ(はるの はるき)/目黒紅亜(ウェイビジョン)、八木 公平(やぎ こうへい)/高橋雲(ヒュー妄)、青井 葵(あおい あおい)/湯本空、二宮 七菜香(にのみや ななか)/服部一姫(札幌表現舎)、多田 忠(ただ ただし)/菊池健汰
【脚本・演出】高橋正子 【照明】手嶋浩二郎(夕凪) 【音響】渥美光(劇団うみねこ) 【舞台美術】岩崎陸來 【宣伝美術】河合華穂 【制作】湯本空、山田雄基 【スタッフ】山崎拓未、五島基愉

●記憶からホンを辿る

・・・猫をかばって死にかけました、そう、死んではいません。そんなあなた、輝いていた高校の頃に戻りませんか?人生、やり直しませんか?ほんの少し寿命をいただきますが・・・
“死神”坂本の半ば強引な誘いに乗ってしまった真希30歳手前?、坂本が過去の隙間を見つけて戻された高校生活とは、なんとコロナの試練真っ只中の放送部!活動休止中にもかかわらず坂本が与えてきたミッションは「みんなで放送の作品を作ること」。生徒会に目を付けられ、放送部の顧問は自分が過ごした高校時代に公開告白をしてきた八木?!
違う時代の高校生活をどう生きる?放送部のみんなで作品作りは?生徒会の目を盗め!働け、八木!

【雑感】

●坂本のサイズがでかい、動きがでかい、声もでかい

いや、貶しているわけではない。ただ事実を述べているだけである。
舞台上での死神=坂本は、時空を超えた状態を示す必要があり、演出としてこのような置き方をしたのだと思う。その意味では、成り立っているとは思う。ただし、坂本の性質上、動きの大きさは時空を乱す、というか、舞台上のフォーカスをどんどん動かしてしまうので、観る側にとってはもう少し落ち着いたほうが見やすいと感じた。また、坂本は基本的に「静」で場を支配し、真希の思わぬ反応に対して派手すぎない「動」で動揺などを表す方法もあったのではないか、と思う。

●部室のドア

役者も演出も舞台美術も、ここは悩んだと思う。部室のウチソトの別が必要だが、舞台空間をしっかり使うためには建て込めない。ドアの開け閉めで空間を仕切ろうとの努力がマイムにも表れているが、芝居をしながらの出入りの連続は、相当な訓練に拠らなければ精密な体の動きを妨げる。かといって、引き戸ではないし・・・見逃しや見落としではないのもわかるが、ドアの開閉は何らかの工夫が必要だったかもしれない。
例えば、恐る恐るのシーンはゆっくり精緻にドアノブを回すがそれ以外はドアノブを回さない、駆け込むところはドアノブすら握らずにドアを跳ね開ける、といった変化のつけ方もありではなかろうか。マイムを見せるための舞台ではなく、ストーリーと感情にフォーカスした演出だったので、それもありかと。

●時代背景の戸惑い

高校生に戻る、と聞くと、高校生をやり直す、と受け取る場合が多いと考える、このため、真希は本人が過ごした高校時代に戻っていくのだろう、と最初の場面で受け取った。ところが、「隙間を見つけるのに苦労しました」(確か坂本にこんなセリフがあった)という時点で、最初の僕の解釈との違いに気づき、シーンは前後しているかもしれないがマスクをしている状況に時期の混乱を生じ、コロナの流行が始まったころに敢えてなぜ戻ったのかに疑問を持ち、とりあえずそこは置いといて、ってな感じになるのに少し時間を要した。
ここは少し、坂本にいつの時代の高校生活に、なぜ戻ったのか、を付言してもらうほうがよかったように感じた。僕が頭の中でぐるぐる考えている間にそのセリフがあったとしたら、ちょっとだけ観客が戸惑わない、もしくは戸惑いの少ない展開のほうが、僕の好み、ではある。

●高校生の、湿度。

部活動のあらゆる大会は中止となり、放送部のNコンも例外ではなかった時期。引退する3年生の無理やりな割り切り、後輩たちの自らの力ではどうにもならない中での先輩に対する無償の思いやり、高校生らしい世界がしっかりと表現されていた。コロナで大会が中止や延期になったりした時期、様々な様子がテレビで報道、特集されていたが、そこに湿度は感じらず、涙はあってもドライなシーンばかりだったことを思い出した。高校生は、もっと高い湿度の中にいたような気がする。僕自身は高校の放送局でアナウンスを経験し、前回の北海道開催のインターハイのアナウンス選抜で苦杯をなめた。そのころは、なにかあればもっと霧がかかるような湿度の中での生活だった。僕自身はその湿度が煩わしくて、高校生っぽい湿度の中から抜け出そうとしていた。
そんなことをも思い出させる、高校生の湿度をリアルに表現していた舞台だったと思う。

●青井の軽さ、二宮の責任感、加奈子の粘度、八木のだるさ、そしてコントラスト

青井の軽さは舞台を明るくし、二宮の責任感は時代を映し、加奈子の粘度は高校生の湿度を体現し、八木のだるさは舞台をまあるくしていた。これは詳しく説明するものではない、舞台を共有した皆さんなら、感じてもらえる表現ではないか、と思い記している。特に青井のドライと金本のウェットのコントラストは、とても鮮やかだった。コントラストという点では、真希と二宮もコロナと時代をめぐるコントラストを表現していた。
感じ方は違えどそれぞれの高校生活とコロナを過ごしてきた人々にとっては、この二つのコントラストが何かを感じるポイントになると思う。

●コロナ禍の高校生へのレクイエムか、大人と政治への皮肉か

劇中で、高校生に戻った真希はほとんどマスクをしていなかった。高校生たちや八木はマスク着用を基本にしていた。部活動の無許可での再開に高2の頼(より)は反発し、高3の加奈子はあきらめ、高1のハルキはあきらめなかった。マスク、お菓子、消毒、密室などが舞台上にばらまかれ、真希がかき回し、二宮が秩序を、青井が波紋を、八木が無気力な大人を、多田が客観を、それぞれ担い、そこからいくつかのイメージが浮かび上がっていた。
公開が約束されない野球部へのインタビューをめぐるストーリーは、コロナで高校生活の1ページを変えられてしまったことへのレクイエムだ。この経験が将来生きるという八木、ルールを守って1日も早い再会を願う二宮、いつだよと叫ぶハルキはコロナによって大人と政治がもたらした状況へのアンチテーゼであり、真希の存在そのものが皮肉に満ちている。
ホンや演出に丁寧さを求めたい気持ちはある。ただ、それを求めるとこの舞台が内包する荒々しさが損なわれ、レクイエムが葬送に、皮肉が痛烈な批判になりかねない。つまり、別作品となってしまう恐れがある。

この作品は、このキャストと舞台と演出で、作品として実にしっかり成立しているのだ。